安東金氏と豊壌趙氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 08:41 UTC 版)
純祖の王妃には金祖淳の娘が純元王后として立てられたがこれ以降、金祖淳の安東金氏は憲宗、哲宗の王妃を送り外戚としての地位を強固なものとして政権をほしいままにした。このような安東金氏に対して対抗したのが豊壌趙氏であり、純祖のころには、趙万永の娘の神貞王妃が孝明世子との間に憲宗を産んだことで外戚の地位を獲得したが、憲宗が男子を残さず没すると安東金氏が哲宗を王位に即かせた。もともと純祖が幼君だったために、それを支える外戚が台頭したのだが、憲宗、哲宗のときには外戚が権力保持のために幼君を立てるという「手段と目的の逆転」が起きていた。
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