安価なトーキーの量産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/30 00:40 UTC 版)
「マキノトーキー製作所」の記事における「安価なトーキーの量産」の解説
同年11月に設立に先駆け、10月末には設立の発表がなされた。第1回作品は澤村國太郎と原駒子の主演、マキノ監督によるトーキー映画『江戸噺鼠小僧』で、撮影所が建設中のため、新興キネマ京都撮影所のステージを借りて撮影を行い、同年12月18日に公開された。同年12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)にマキノトーキー撮影所が開設となった。 1936年(昭和11年)1月、同社の陣容を発表した(以下抜粋、一部追記)。 撮影所長 マキノ正博 理事 笹井末三郎 所長秘書・人事部 楠五郎 経理部 田丸重雄、笹井武彦 製作部 伊東弘 進行部 響庭寅蔵、片山伸二 監督部 松田定次、広瀬五郎、久保為義、根岸東一郎、中川信夫 脚本部 比佐芳武、千治喬(千治喬二)、山下元、波多謙治、山本正夫 技術部 大森伊八、大塚周一、藤井春美、柾木四平 照明部 山下直一 小道具部 長尾淑 大道具部 川村鬼世志 助監督部 姓丸浩、平尾善夫、藤本脩一郎、駒沢雅夫、宮城文夫、佐々木勘一郎 編集部 宮本信夫、井上秋江、井上貞子 技芸部男優 月形龍之介、澤村國太郎、中野英治、光岡龍三郎、葉山純之輔、谷譲二、ジョー・オハラ、大泉慶治、榊田敬治、清水英朗 技芸部女優 マキノ智子、松浦築枝、原駒子、山縣直代、マキノ博子、花房銀子、藤代朝子 企画部 松山英夫、岡本潤、中川信夫、坂田重則ほか ※後に参加したキャスト 技芸部男優 志村喬、団徳麿、田村邦男、光岡龍三郎、水原洋一、浅野進二郎、廣田昂、椿三四郎、雲井龍之介、林誠太郎、大内弘、坂内永三郎ほか 技芸部女優 大久保清子、大倉千代子、月澄江、大内照子、桜井京子、久松三津枝ほか 撮影所が開所してわずか1か月の同月末、すでに通算9本を完成、4本の映画にとりかかっていた。やがてサウンド版はやめ、安価なトーキーを月間4本ペースで製作した。しかし、新興キネマから東宝へ移籍した森田信義プロデューサーからの要請で、同年4月に月形を東宝にレンタルしたところ、帰ってこなかった。森田は、マキノトーキー第1作を「山本正夫」名義で書いた人物である。また同じ時期、吉本興業(東京吉本)の林弘高の紹介で東宝の滝村和男に数日間、トーキーを学ぶ名目で撮影所に出入りさせたところ、『涯なき航路』の富士でのロケ先に滝村が現れ、中野英治や山縣直代ら数人を引き抜き、東京へ連れて行かれてしまう。 東京の映音の太田進一社長、マキノトーキー理事の笹井末三郎、千鳥興業の宗田政雄、マキノトーキー企画部長の松山英夫、所長のマキノの首脳会議により、株式会社化を決議、同年9月、組織変更を行い、同社は「マキノトーキー株式会社」となる。同時期の前年末以来の通算生産本数は、オール・トーキー26本、パート・トーキー2本、サウンド版2本であり、総製作費の千鳥興業のマキノトーキーへの支払額が40万5,000円、マキノトーキーの立替額が45万円であったのでその精算を行い、千鳥とマキノで資本金を折半し、撮影所と千鳥興業配給とその神戸事務所を株式会社化したのであった。その後も製作は配給所が負担するという条件が確認された。またこの翌月10月1日から、従来千鳥興業が配給していた、西宮の甲陽映画の配給をマキノトーキーが配給することとなった。 同年末、株式会社化以降の通算生産本数は、オール・トーキー22本とスペアとしてのサウンド版1本であった。笹井が自ら経営する賃貸物件の土地建物を売却して調達した2万円を経理部長の田丸に渡し、全従業員の年末賞与とした。年中無休のマキノトーキーはようやく年末年始休暇をとった。
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