学校の役割の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 05:59 UTC 版)
「年齢主義と課程主義」の記事における「学校の役割の変遷」の解説
よく学校は知育・徳育・体育の場であるといわれるが、学校が同年齢集団となる場合、知育の場としての性格が薄れて行く傾向が見られる。 前述の通り、江戸時代においては寺子屋などの私塾が読み書きそろばんの習得の場であった。畿内では男性の識字率がかなり高く、これは寺子屋の貢献が大きいといわれる。明治時代に学校制度が施行されてからもしばらくの間は、小学校は進級試験のある課程主義で運営され、それまでの寺子屋に代わる日常生活のための識字の場であり、また立身出世のための学問の場でもあった。しかし軍国化がすすむに伴い、知育よりも軍役に耐える国民を作り出すための体育が重視され始め、国民学校制度の頃にはほぼ年齢主義となった。戦後もこの影響は払拭できず、ほとんどの小中学校は同学年=同年齢の集団に対する教育の場と位置づけられた。年齢主義を徹底すると、学年は能力に応じて所属する教育の場ではなく、同年齢者の集合する場となるため、様々な個別化教育を行わないと能力に合った教育が難しくなる。しかしながら、日本では諸外国のように個人の能力差に応じた教育があまり行われなかったため、学習指導要領が簡素化されてからは学校で十分に進学のための知識を習得することは難しくなり、学習塾が人気を呼ぶこととなった。 進学志向の強い生徒や家庭は、公立の小中学校では高校受験や大学受験に適した学力を身につけることは困難だと判断し、学習塾や予備校や学習参考書や通信教育を利用し、独学傾向が強まって行った。また、長期欠席生徒が進学を目指す場合もそうならざるを得ない。こうなると小中学校は学力を身につける場という性格が薄れていき、通塾率の高い地域においては、学校は社会教育の場、塾は受験勉強をする場という住み分けすらなされている。一方、私立学校においては知育重視の教育をするところもあり、必ずしも学校離れが起きているわけではない。 このように、江戸時代における知育の場は寺子屋などの私塾であったが、明治時代にはそれが小学校になり、高度経済成長期以降には再び学習塾や予備校などの学校外教育機関に戻るという変遷をたどっている。現代では学校以外にも学びの場所は多いため、相対的に学校の魅力や必要性が低下している。こういった状況は、塾の費用を負担できない階層や教育に対する意識が少ない階層にしわ寄せが行くため、学力格差・教育格差や学力低下としてよく批判される。しかし、日本ではすでに識字率が高止まりし、それ以上の学校知があまり社会で役に立たないという共通認識も強いため、あまり深刻には受け止められていない。ただ、中学校までもが幼稚園と同じように同年齢教育の場になっているため、学習者の年齢によっては学校教育が受けられず、独学や学習塾などに頼るしかないという本末転倒な状況は依然として存在する。
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