学制への批判と教育令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:04 UTC 版)
こうして始まった学制と修身科は一定の啓蒙的役割を果たしたが、以下のようにいくつかの問題を抱えていた。 教育費の受益者負担 強制就学による労働力の喪失 実生活を無視した教育 さらに、同時期、士族の反乱や自由民権運動により政治的緊張の高まっており、これに相まって、明治政府の欧米化政策に対して強い反発が現れるようになった。このような中で、もともと、「欧米化」により日本人としての精神が失われることに強い危機感を持っていた儒学者からは「教育の精神的よりどころを従来の儒学的思想に置くべきだ」との意見が噴出した。 そうして、1879年(明治12年)に『教学聖旨』が提示されることとなる。これは、維新以来の欧米化政策に対する憂慮と、それによる古来からの儒教主義的道徳観にもとづく教育の確立という「時代の要望」であったともいえる。この文書は天皇による聖旨という形で書かれているが起草を担当したのは儒学者で天皇の侍講の元田永孚であった。しかし、天皇の名を使ったものであっただけに影響は大きく、同年には早速、修身において翻訳書を使用禁止となった。そして、これ以降、日本の教育政策は知育重視から徳育重視の方針に転換することになる。この聖旨の具体的内容は、自由民権運動などの問題(風俗の乱れ)は維新以来の「教育が知育主義に走り道徳教育をないがしろにした」ことが原因と批判し、「仁義忠孝」を中心とした伝統的な儒教的な道徳教育を中心に教育を進めるべきであると主張するものであった。これはつまり、「列強を恐れすぎて近代化を急ぎすぎたので、これを修正しよう」というものであったが、同時に特定の道徳観念を強制するものでもあった。 ただし、この教学聖旨に対しては開明派官僚の反対が相次いだ。例えば、伊藤博文は『教育議』(1879)の中で「風俗の乱れは欧米化によるものではなく、急激な社会構造の変化によるもの」であるとし、「科学的な知識教育こそがそのような問題を失くしていく方法だ」と主張した。これに対して、また、先の『教学聖旨』を起草した元田は『教育議附議』を提出し反論するがその意見は認められず、同年従来の学制を廃止し『教育令』が公布された。なお、後の改正教育令と区別するため、この教育令を『自由教育令』と呼ぶこともある。その主な内容は「就学義務の緩和」や「学務委員の選挙による選出」など自由・放任主義を原則とするものであったが、道徳教育に関しては特に重視されたりすることなく従来と変わらない扱いであった。
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