改正教育令とは? わかりやすく解説

改正教育令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:04 UTC 版)

修身」の記事における「改正教育令」の解説

前述のように、1879年明治12年)には学制廃止して新しく教育令公布されたが、教学聖旨などの儒教主義への回帰主義に逆らうことはできず、翌年1880年明治13年)に「改正教育令」としてその内容ガラリ変えることになる。この改正教育令の特徴教科順番修身が一番先頭来ていることであり、以後太平洋戦争が始まるまで学校教育においては「修身」が筆頭となることとなった具体的には、例えば、この翌年1881年明治14年5月4日作成された『小学校教則綱領』(文部省達)では小学校における修身科授業時間数学制時に比べて12倍に増え小学校初等中等高等の3科に区分し歴史日本歴史のみとし、同年にこの改正教育令に基づいて作られた『小学校教員心得』(1881年6月18日文部省達)では教師児童・生徒知識教え込むではなく道徳性持たせるべきであるとされた。 さらに、その修身科内容儒教色の濃いものとなった例えば、前述のように修身科教科書として翻訳書禁止した一方で元田永孚の『幼学綱要』(1882)や、西村茂樹の『小学修身訓』(1880)『小学修身書』(1883) など新し教科書儒学者によって作らせた。また、1882年明治15年)の文部省による『小学修身編纂大意』(1881年4月27日内示においては儒教日本固有の道徳倫理に密接に関係している」「欧米倫理学日本の風土に合わない」といったことが書かれており、これに基づいた教科書からは西洋格言などが姿を消したこのような道徳教育重視」の流れによって、この時代学校教育干渉主義統制主義の強いものになった前述のような教科書統制だけではなく1881年明治14年7月21日には『学校教員品行検定規則』(文部省達)によって「教師反体制的言動思想」が規制の対象となったり、修身科以外の教科に対して内容干渉が行われたりするようになり、各教科自立性失われる結果となった

※この「改正教育令」の解説は、「修身」の解説の一部です。
「改正教育令」を含む「修身」の記事については、「修身」の概要を参照ください。

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