改正教育令
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前述のように、1879年(明治12年)には学制を廃止して新しく教育令が公布されたが、教学聖旨などの儒教主義への回帰主義に逆らうことはできず、翌年1880年(明治13年)に「改正教育令」としてその内容をガラリと変えることになる。この改正教育令の特徴は教科の順番で修身が一番先頭に来ていることであり、以後、太平洋戦争が始まるまで学校教育においては「修身」が筆頭となることとなった。具体的には、例えば、この翌年1881年(明治14年)5月4日に作成された『小学校教則綱領』(文部省達)では小学校における修身科の授業時間数が学制の時に比べて12倍に増え、小学校を初等・中等・高等の3科に区分し、歴史は日本歴史のみとし、同年にこの改正教育令に基づいて作られた『小学校教員心得』(1881年6月18日文部省達)では教師は児童・生徒に知識を教え込むのではなく道徳性を持たせるべきであるとされた。 さらに、その修身科の内容も儒教色の濃いものとなった 。例えば、前述のように修身科の教科書として翻訳書を禁止した一方で、元田永孚の『幼学綱要』(1882)や、西村茂樹の『小学修身訓』(1880)『小学修身書』(1883) など新しい教科書を儒学者によって作らせた。また、1882年(明治15年)の文部省による『小学修身編纂方大意』(1881年4月27日内示)においては「儒教が日本固有の道徳倫理に密接に関係している」「欧米の倫理学は日本の風土に合わない」といったことが書かれており、これに基づいた教科書からは西洋の格言などが姿を消した。 このような「道徳教育重視」の流れによって、この時代の学校教育は干渉主義・統制主義の強いものになった。前述のような教科書の統制だけではなく、1881年(明治14年)7月21日には『学校教員品行検定規則』(文部省達)によって「教師の反体制的言動・思想」が規制の対象となったり、修身科以外の教科に対しても内容干渉が行われたりするようになり、各教科の自立性が失われる結果となった。
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