奥山荘城館遺跡
名称: | 奥山荘城館遺跡 |
ふりがな: | おくやまのしょうじょうかんいせき |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 新潟県 |
市区町村: | 胎内市、新発田市 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1984.10.03(昭和59.10.03) |
指定基準: | 史2 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | 平成18.01.26 |
解説文: | H10-12-042[[奥山荘城館遺跡]おくやまのしょうじょうかんいせき].txt: 奥山荘城館遺跡は、新潟県北部に位置し、中世東国を代表する荘園の奥山荘の荘域に形成された、城館遺跡・信仰関係遺跡・生産遺跡等の13か所が史跡指定されている。江上館跡は、中条町の南部、旧潟湖に隣接する扇状地の扇端部の標高約18メートルの微高地に占地し、三浦和田氏の惣領家である中条氏の居館跡と伝えられている。 平成3年から8年まで中条町教育委員会が継続的に行った発掘調査によって、約1町四方の主郭とそれに附属する南郭・北郭からなる館跡の全体像がほぼ判明した。13世紀から16世紀前半の中国陶磁器・珠洲焼等が大量に出土し、4か所の橋跡、南門・北門跡、数次にわたる堀・土塁の改修補強の様相が確認された。今回の追加指定地は、北郭の堀跡の一部にかかる一筆で、当初から指定を予定していたが未同意であった。周辺部は急速に住宅化が進んでいるが、史跡整備の進行に伴い、ようやく所有者の同意を得ることができた。よって史跡に追加して指定し、保存を図ろうとするものである。 |
奥山荘城館遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 10:08 UTC 版)
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所在地 | 新潟県胎内市・新発田市 |
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座標 | 北緯38度03分18秒 東経139度25分18秒 / 北緯38.05500度 東経139.42167度座標: 北緯38度03分18秒 東経139度25分18秒 / 北緯38.05500度 東経139.42167度 |
歴史 | |
時代 | 中世 |
文化財指定 | 2006年-国史跡 |
奥山荘城館遺跡(おくやまのしょうじょうかんいせき)は、新潟県胎内市あかね町・本郷町、新発田市加治川にある中世の荘園跡である。1984年10月3日に国史跡に指定され、2006年1月26日に追加指定がなされた。
概要
奥山荘城館遺跡は、新潟県北部に位置し、中世東国を代表する荘園の奥山荘の荘域に形成された、城館遺跡・信仰関係遺跡・生産遺跡等の13か所が史跡指定されている。江上館跡は、中条町の南部、旧潟湖に隣接する扇状地の扇端部の標高約18メートルの微高地に占地し、三浦和田氏の惣領家である中条氏の居館跡と伝えられている[1]。
1991年~1996年(平成3年~8年)まで中条町教育委員会が継続的に行った発掘調査によって、約1町四方の主郭とそれに附属する南郭・北郭からなる館跡の全体像がほぼ判明した。13世紀から16世紀前半の中国陶磁器・珠洲焼等が大量に出土し、4か所の橋跡、南門・北門跡、数次にわたる堀・土塁の改修補強の様相が確認された[1]。
2002年(平成14年)には江上館跡に「奥山荘歴史の広場」がオープンした[2]。
リスト
史跡指定されている遺跡には以下が含まれる。
- 江上館跡
- 鳥坂城跡
- 倉田城跡
- 野中石塔婆群
- 小鷹宮境内地
- 韋駄天山遺跡
- 黒川城跡
- 蔵王権現遺跡
- 臭水遺跡
- 金山城跡
- 願文山城跡
- 高館跡
- 館ノ内跡
- 蝸牛山城跡
- 坊城館跡
- 古館館跡
- 鳥坂城跡の山麓居館跡
脚注
関連項目
外部リンク
- 奥山荘城館遺跡 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- にいがた観光ナビ:奥山荘歴史の広場・奥山荘歴史館 - 新潟県観光協会
- 奥山荘歴史館 - 胎内市
- 奥山荘城館遺跡のページへのリンク