奥山義章とは? わかりやすく解説

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奥山義章 おくやま よしあき

奥山義章の肖像 その1
嘉永3年明治45年7月 (1850~1912)

愛媛生まれ。陸軍軍人。明治5年(1872)東京出て陸軍教導団入り続いて陸軍戸山学校に入る。日清戦争出征36年(1903)大佐37年(1904)日露戦争時には第4軍兵站監として出征39年(1906)少将退役後、郷里教育尽力した

キーワード 陸軍軍人
号・別称 義章(ぎしょう)

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奥山義章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/20 04:29 UTC 版)

奥山 義章
おくやま ぎしょう/よしあき
矢部信太郎 編『近代名士之面影 第一集』
生誕 嘉永3年11月29日
1851年1月1日
江戸幕府 伊予国伊予吉田藩(現・愛媛県宇和島市
死没 (1912-07-05) 1912年7月5日(61歳没)
日本 愛媛県北宇和郡吉田町(現・宇和島市)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1872年 - 1909年
兵科 歩兵
最終階級 陸軍少将
勲章 勲三等
出身校 陸軍戸山学校
除隊後 教育家
墓所 一乗寺 (宇和島市)
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奥山 義章(おくやま ぎしょう/よしあき、嘉永3年11月29日1851年1月1日〉 - 明治45年〈1912年7月5日)は日本軍人歩兵大佐大日本帝国第4軍歩兵大佐として活躍した後、郷里の教育にも力を尽くした。別称は義章(ぎしょう)。位階正五位

生涯

嘉永3年(1851年)に、愛媛県吉田町に生まれる。

明治5年(1872年)に、東京に出て陸軍教導団に入る。その後の明治12年(1879年)に、選ばれて陸軍戸山学校に入学。明治25年(1892年)には、陸軍少佐に任ぜられる。明治27年(1894年)に、日清戦争に出征し、満洲国で戦う。その後、功績から、明治36年(1903年)大阪の司令官に補せられ、大佐に任命されたが、後に後備役に編入させられた。しかし、翌年の明治37年(1904年)の日露戦争に再び出征。第4軍歩兵大佐に任命された。また、戦後、義章の功績から、少将にも任命された。明治42年(1909年)に、大日本帝国陸軍を退役。

郷里に帰り、教育家として活躍。3年後の明治45年(1912年)に、病により逝去。

略歴

参考文献

  • 矢部信太郎編『近代名士之面影 第一集』竹帛社、1914年。


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