契約年季労働
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:20 UTC 版)
トウモロコシ、サツマイモ、落花生、タバコが中国に輸入されて栽培が進むと、江南は人口増となり、台湾、タイ、ジャワへの移住が起きる。1830年代からの1世紀で華僑は激増して、それまでの商人である華商から、華工の割合が増加した。一方で、アフリカでの奴隷貿易の禁止が進み、各国では労働力の不足をおぎなう方策が求められるようになる。こうして天津条約や北京条約ののちは、1860年代から移民が急増した。1840年代から1870年代には移民がカリブ地方、南北アメリカ、ハワイ、アフリカに向かい、蒸気船の実用化も輸送に拍車をかけた。清からの移住者は苦力とも呼ばれ、1866年には清とイギリス・フランスのあいだで華工移民協定が結ばれ、契約移民となった。インド系移民も多数にのぼり、同様のルートで各地のプランテーションで働いた。契約年季労働者は200万人以上にのぼり、旅費と引き換えに5年間の労働契約を結んだ。白人の労働者には土地が割譲されることがあったが、中国人やインド人は帰国させられた。奴隷制の代わりとして過酷な労働につかされたため、契約期間を全うできない者も多く、1920年代には中国とインドで契約年季労働が禁止された。 契約年季労働の初期には、強引な手段や暴力で人集めをする業者もおり、そのような行為はブラックバーディング(英語版)と呼ばれた。ブラックバーダーは中国や太平洋各地から人間を集めて島々や南米のプランテーションに送り、地域が荒廃するほど多数の住民が連れ去られた島もあった。契約年季労働を終えた者が持ち帰る財は現地で大きな価値を持ち、欧米の財を入手するために契約労働を始める者もいた。
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