天竺波提国王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 12:55 UTC 版)
諏訪明神の出自を異国(天竺)に求める中世の説話も存在する。 嘉禎4年(1238年)の奥書を識す『諏訪上社物忌令之事』によると、「建御名方明神」は本来、天竺にある波提(はだい)という国の王であった。王が7月末頃に鹿野苑で狩りを催したとき、「守屋逆臣」が反乱を起こす。王はその難を逃れて、広大なる慈悲の名を世に示した。後に波斯国で悪龍を倒し、「諏訪皇帝」となる。「東方金色山」で善苗を殖え、成仏した皇帝はやがて日本に渡来し、摂津の海辺(住吉)、西宮、美濃の高山(南宮)を経由して信濃にある諏訪郡にたどり着き諏訪明神となった。 同じような話は『諏方大明神画詞』「祭第六 秋下」にも御射山祭の由緒として説かれている。ここでは逆臣の名前が「美教」となっており、狩りこそが畜類済度の方便である、と王が天に訴えると、梵天に遣わされた四天王が逆臣を誅して王を救った、と書かれている。 『上社物忌令』における悪龍の退治の話が『画詞』には見られず、同じ編者による『諏方大明神講式』では採り上げられている。しかし、「当社縁起」といいながらも、作者が分からず、そうかといって無視・黙殺もできないシロモノ扱いされている。(一方、『旧事本紀』におけるタケミナカタの諏訪への隠棲の記述を「不可疑(疑フベカラズ)」と言い切っている。)これは『画詞』が典拠にこだわりながら撰述されたものが故に、出典不明のこの話を『画詞』に載せるのに躊躇したのかもしれないと思われる。 『講式』では、波提国王が釈迦如来の祖父である獅子頬王の玄孫とされている(日光輪王寺蔵『諏訪神道縁起』にも同じ説が見られる)。また、天竺で謀反を起こした美教大臣が日本に渡り、明神と相争った「洩矢の悪賊」になったとも述べられている。 諏訪明神の口述といわれ、中世の御射山祭に大祝が読み上げた『陬波御記文(すわみしるしぶみ)』では、「陬波大王」が甲午を期して姿を隠したと言われている。更に『御記文』の注釈書『陬波私注』(鎌倉時代末期)によれば、陬波大王が生まれたときの干支も同じく甲午であったという。 なお、『陬波私注』では大祝有員が諏訪明神をともなって天竺から日本へやってきて、明神の叔父にあたる「続旦(そくたん)大臣」とされている。
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