天竺波提国王と守屋(美教)逆臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 04:00 UTC 版)
「洩矢神」の記事における「天竺波提国王と守屋(美教)逆臣」の解説
嘉禎4年(1238年)の奥書を識す『諏訪上社物忌令之事』に収載されている垂迹説話によると、天竺にある波提(はだい)国の王であった「建御名方明神」は7月末頃に鹿野苑で狩りを催したとき、「守屋逆臣」という者が彼に対して謀反を起こした。王はその兵乱を逃れて、広大なる慈悲の名を世に示したという。 『諏方大明神画詞』「祭第六 秋下」にも御射山祭の由緒として同じ伝承が語られているが、ここでは逆臣の名前が「美教」となっている。これによれば、美教が率いる反乱軍に殺されかけたとき、王は狩りこそが畜類済度の方便であると天に訴えた。その志が梵天に通じ、梵天は四天王を遣わして逆臣を誅した、と書かれている。『諏方大明神講式』にも『画詞』とほぼ同文の説話が載せられており、ここでは「美教大臣」が日本に渡来して「洩矢ノ悪賊」になったとも伝える 。
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