大阪画壇のリーダー
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こうした創作活動のかたわら、1912年(大正元年)8月に野田九浦、菅楯彦、上島鳳山らと大正美術会、大正4年(1915年)には大阪美術協会、大正7年(1918年)には水田竹圃らと大阪茶話会を設立して大阪画壇の再編に奔走したほか、画塾「白燿社」を主宰して不二木阿古、中村貞以、樋口富麿、生田花朝女ら多くの門下生を育てたほか、大正末年には徳島で南海画塾も設立した。他方、大正7年(1918年)に浮世絵と同じ技法による新版画「廓の春秋」を青果堂(中島重太郎)から出版、大正13年(1924年)に「新浮世絵美人合 三月 口べに」を発表、また、大正14年(1925年)に根津清太郎という版元から「鷺娘」などを出版し、浪速情緒にあふれた木版画を残している。島成園を少女時代から指導し、大正14年(1925年)に木谷千種、松本華羊、星野更園、三露千鈴らを会員として結成された創作グループ「向日会」の顧問に就任するなど、大正、昭和初期の大阪で活躍した女性画家たちを積極的に指導、後援し、終戦後の昭和21年(1946年)に大阪市立美術館に絵画研究所が併設されると、日本画講師として招かれるなど、大阪画壇のリーダー的存在として重きをなした。昭和22年(1947年)5月20日に当時在住していた大阪府中河内郡三野郷村字玉井(現在の東大阪市、八尾市の一部)の自宅で心臓麻痺のため急逝した。戒名は「天真院釈幽玄恒富居士」。墓は奈良市富雄の霊山寺で、故郷金沢にも分骨された。昭和34年(1959年)の十三回忌の際には、大阪市中央区高津宮に恒富の筆塚『恒富庵』が建立された(書は河東碧梧桐)。平成元年(1989年)の切手趣味週間には彼の作品「阿波踊」をデザインした切手が発行された。
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