女性画家たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/19 07:48 UTC 版)
「王立絵画彫刻アカデミー」の記事における「女性画家たち」の解説
発足当初のアカデミーは女性会員を受け入れており、17世紀中には六人の女性会員が誕生したが、1706年から女性の入会は禁じられる。アカデミーでの教育が男性裸体モデルを用いた素描の授業を中心としていたため、女性の授業参加が不適切と考えられたとも言われる。 しかし1770年、上限を4名とする条件つきながら、女性会員を再び迎え入れる決定が出される。男性モデルを描く授業への参加が禁止されたため、古代ローマや聖書のエピソードを題材とする歴史画からも女性は遠ざけられた。そのためこの時期の女性会員が描いたのは、ほぼ全てが、アカデミーのヒエラルキーの中では下位に位置づけられる静物画や肖像画である。しかし18世紀にはアカデミー外の絵画市場も成熟しはじめ、経済的に成功した画家も現れる。 1783年に会員となったヴィジェ=ルブランは、18世紀では最も成功した女性画家の一人である。マリー=アントワネットの寵愛を受けて肖像画家として重用され、彼女が描いたマリー=アントワネットの肖像は、衣装や髪型の最先端の流行を示すものとして大きな評判を呼んだ。作品に加えて、彼女自身の美貌と才気あふれる会話は各国の王室や貴族で評価が高く、マリー=アントワネット亡きあとはロシアやイタリアなど各国で作品を残している。
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