大開と松下幸之助の関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 14:30 UTC 版)
「大開 (大阪市)」の記事における「大開と松下幸之助の関わり」の解説
1918年に、大開二丁目でパナソニック(旧:松下電気器具製作所)が創立。当時、松下幸之助は23歳。妻むめのと後の三洋電機創業者である義弟井植歳男の3人での操業開始であったが、一般家庭への電化製品の普及と共に、急速に業容を拡大し、1922年には同町内に100坪余りの新工場(第一次本店・工場)を竣工、その後1925年に大開三丁目にランプ工場を建設、1929年にも第二次本店・工場を竣工した。(同跡地は後に大開公園として整備され、松下幸之助創業の記念碑が2004年に建立された。) 大開と松下幸之助の関連年表年内容1918年(大正7年) 松下幸之助23歳の時に、大阪市北区西野田大開町844番地(現:大開二丁目)に借家を借り、妻むめの、義弟井植歳男(三洋電機創業者、当時15歳)の3人で松下電気器具製作所を創立。 1922年(大正11年) 創業の家が手狭になったことから、西野田大開町896番地(現在の大開二丁目)に100坪余りの新工場(第一次本店・工場)を竣工した。松下幸之助は終生この地に本籍を置いていた。当時、大開町内の有力者十一人が、お互いの親睦と友好を図るために「十一会」を作り、合同で貸家経営をしたり、会員それぞれがお金を出し合って、ひと月ないしふた月に1回の割合で懇親会などを行ったりしていた。その後、幸之助氏は業容拡大のため大開町から門真へ本拠を移し、会員としては残ったものの、会合に出席することはほとんど無かったが、この会はのちに「又行会(またいこうかい)」に名称を変更し、その後も存続し、年に2、3回の会合を続けたという 1925年(大正14年) 工場が手狭になったため、大開町四丁目28番地(現在の大開三丁目)にランプ組立工場を建設し、砲弾型自転車ランプなどを製造した。同年には、地元の人々からの推薦で大阪市の連合区会議員に立候補し、28人中2位で当選する。 1927年(昭和2年) 住友銀行西野田支店(現在の三井住友銀行西野田支店)と取引を開始する。 1929年(昭和4年) 昭和初期の不況の中でも発展を続けた松下電気器具製作所は松下電器製作所と改称し、大開町二丁目25番地(現在の大開一丁目)に、第二次本店・工場を竣工した。
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