大内家臣時代
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大内氏家臣の小野清資の子として生まれ、初めは小野矩資と名乗った。天文21年(1552年)6月3日、に長門国厚狭郡末益名内の30石足と鎌倉時代からの代々の証文類を父より譲られる。このことを8月13日に大内氏家臣の神代忠兼と杉重矩が大内義長に上申し、8月18日に大内義長に相続を認められた。 弘治元年(1555年)10月1日の厳島の戦いで陶晴賢が敗死して陶氏の勢力が弱まると、晴賢に父・重矩を討たれていた杉重輔は、晴賢の子の長房と貞明を討って毛利元就に通じた。この動きに対して内藤隆世は大内義長の命を奉じ、弘治2年(1556年)3月2日に重輔の屋敷を襲撃。重輔は頑強に抵抗した後に屋敷を脱し、大内義長を討ち取らんと今八幡宮に攻め寄せたが、義長の家臣らの防戦により失敗し、3月4日に防府で討たれた。この今八幡宮での合戦に俊久も参加して矢傷を負いつつも戦い、同年8月10日に大内義長から感状を与えられ、父・清資は10月27日に山城守に吹挙された。
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大内家臣時代
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天文9年(1540年)、出雲国の尼子晴久が吉田郡山城を攻めたとき、毛利元就の援軍として主君・義隆から総大将の権限を与えられ、天文10年(1541年)1月に尼子軍を撃退するという功績を挙げた(第1次吉田郡山城の戦い)。 天文11年(1542年)には逆に尼子領に侵攻するが、この出雲遠征における月山富田城攻め(第一次月山富田城の戦い)には失敗し、大内晴持をはじめとする多数の死傷者を出して大敗した。以後、義隆は軍事面に興味を示さなくなり文化に傾倒、文治派の相良武任の台頭を招く。この事態に武断派の隆房は影響力を失ってゆき、さらに武任を重用する義隆とも不仲になってゆく。 天文14年(1545年)、義隆に実子・大内義尊が生まれたことを契機に、隆房は武任を強制的に隠居に追い込み、大内家の主導権を奪還する。天文17年(1548年)に義隆が従二位に叙位されると、従五位上に昇叙された。また義隆の命令で、備後国へ出陣し、元就らとともに神辺城を攻撃している(神辺合戦)。しかし同年、義隆によって武任が評定衆として復帰すると、文治派の巻き返しを受けて再び大内家中枢から排除される。このため天文19年(1550年)、内藤興盛らと手を結んで武任を暗殺しようとするが、事前に察知されて義隆の詰問を受けることとなり、事実上、大内家での立場を失った。
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