大内家臣時代とは? わかりやすく解説

大内家臣時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 06:40 UTC 版)

小野俊久」の記事における「大内家臣時代」の解説

大内氏家臣小野清の子として生まれ初め小野矩資と名乗った天文21年1552年6月3日、に長門国厚狭郡末益名内30石足と鎌倉時代からの代々証文類を父より譲られる。このことを8月13日大内氏家臣神代忠兼と杉重矩大内義長上申し8月18日大内義長相続認められた。 弘治元年1555年10月1日厳島の戦い陶晴賢敗死して陶氏勢力弱まると、晴賢に父・重矩を討たれていた杉重輔は、晴賢の子の長房と貞明討って毛利元就通じた。この動きに対して内藤隆世大内義長の命を奉じ弘治2年1556年3月2日に重輔の屋敷襲撃。重輔は頑強に抵抗した後に屋敷脱し大内義長討ち取らんと今八幡宮攻め寄せたが、義長の家臣らの防戦により失敗し3月4日防府討たれた。この今八幡宮での合戦に俊久も参加して矢傷負いつつも戦い同年8月10日大内義長から感状与えられ、父・清資は10月27日山城守吹挙された。

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大内家臣時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 19:51 UTC 版)

陶晴賢」の記事における「大内家臣時代」の解説

天文9年1540年)、出雲国尼子晴久吉田郡山城攻めたとき、毛利元就援軍として主君・義隆から総大将権限与えられ天文10年1541年1月尼子軍撃退するという功績挙げた第1次吉田郡山城の戦い)。 天文11年1542年)には逆に尼子領に侵攻するが、この出雲遠征における月山富田城攻め第一次月山富田城の戦い)には失敗し大内晴持はじめとする多数死傷者出して大敗した以後、義隆は軍事面興味を示さなくなり文化傾倒文治派相良武任台頭を招く。この事態武断派の隆房は影響力失ってゆき、さらに武任を重用する義隆と不仲になってゆく。 天文14年1545年)、義隆に実子大内義尊生まれたことを契機に、隆房は武任を強制的に隠居追い込み大内家主導権奪還する天文17年1548年)に義隆が従二位叙位されると、従五位上昇叙された。また義隆の命令で、備後国出陣し元就とともに神辺城攻撃している(神辺合戦)。しかし同年、義隆によって武任が評定衆として復帰すると、文治派巻き返し受けて再び大内家中枢から排除されるこのため天文19年1550年)、内藤興盛らと手を結んで武任を暗殺しようとするが、事前に察知されて義隆の詰問を受けることとなり、事実上大内家での立場失った

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