大下宇陀児と横溝正史
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『新青年』の編集者だった横溝正史が初めて宇陀児にあったのは昭和2年のことだった。当時宇陀児はまだ窒素研究所に在籍し、牛込の東五軒に住んでいて、妻の歌が病床にあり、貧しい家だったという。ところが長篇を頼みに行った痩せぎすの横溝に宇陀児は「君たちは米の飯を食わんからいかん、米の飯を食わんと太らんよ、ワシは米の飯が好きでな」と、「例の童顔の目玉をクリクリさせながら」言ってみせ、横溝はまじめなのか冗談なのかわからず大いに面喰らった。のちの宇陀児は随筆で、これを「見え坊」だと語っている。 横溝によると、このとき依頼した『闇の中の顔』は「可もなく不可もなし」というところだったが、昭和4年の『蛭川博士』のあと、宇陀児は「アレヨアレヨで」またたくまに人気作家になった。これを横溝が誉めると宇陀児は「なあに、乱歩の『陰獣』の焼き直しだよ」と言下にいったという。横溝は「ここいらが見え坊の見え坊たるゆえんだろうか。見え坊とはテレ屋さんのことらしい」としているが、宇陀児は終生乱歩には一目置いており、「案外本音だったかもしれない」とも偲んでいる。 日本敗戦後、宇陀児は激しい虚無感に身を置き、なかなか創作意欲が働かなかった。東京では軍の弾圧の無くなった文壇界で、乱歩がさかんに「本格探偵小説」鼓吹の議論を展開していたなか、宇陀児は岡山の片田舎に疎開していた横溝に「骨を吹く」で始まる俳句を送ってよこして驚かせている。横溝は「なにも本格だけが探偵小説ではないであろう、あなたはあなたの性にあったものを書いたらどうか」と「とりどりの花ありてこそ野は楽し」との句を送って励ましたという。 横溝は「もっともまもなく宇陀児は『二十の扉』のレギュラーとなっていて、そっちのほうが忙しかったのかもしれない」としながら、戦後の東京の探偵文壇には乱歩を中心に熱狂的な雰囲気にあり、「宇陀児はそういう子供っぽい情念のなかに身をおくのがきらいだったのではないかと思う。それより『二十の扉』の大人のつきあいのほうを好んだのではないか」とも述べている。 そのなかで宇陀児は探偵作家仲間から離れてしまおうとせず、「探偵作家クラブ」の会長も勤めており、横溝は逆の行動をとった甲賀三郎と比較して、「常識人としての宇陀児の円満な人柄が偲ばれる」としている。 宇陀児は敗戦のときに一家自決を決意し、青酸カリを用意したという。が、ものは試しと金魚鉢にこの青酸カリを投じたところ、金魚はいっこうに死なず、これを見た宇陀児は自決を思いとどまったという。宇陀児は愛妻・歌の一周忌で、横溝らにこの告白をしたのだが、こういうときでも宇陀児はわざと目玉をクリクリさせ、聞く人にそれほど深刻な思いをさせなかった。宇陀児の逝去は雨村や乱歩に相次ぐもので、残された横溝の寂寥感も強かったといい、これを「宇陀児が逝ったのは昭和四十一年八月、雨村、乱歩に遅れること約一年、みなさん義理堅いことである」と偲んでいる。
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