大下宇陀児と甲賀三郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 20:49 UTC 版)
宇陀児は「窒素研究所」の同僚の甲賀三郎とともに「新青年」でデビューしているが、探偵作家として世に出たのは甲賀の方が早かった。横溝正史は大正5年に「新青年」編集部に入ったが、甲賀が「新青年」以外でも売れ始めていたのに対し、宇陀児はまだまだ無名だった。 横溝は一頭地を抜いていた乱歩をおいて、「戦前の探偵作家のうち好敵手といえば、やはり甲賀さんと大下さんだったと思う」と述べている。両者は一高の先輩後輩であり、大学は違えど応用化学の専攻技術者、相識ったころはふたりとも「窒素研究所」に奉職中、ということで、「これを要するにふたりとも申し分のない秀才であった」としている。 しかし来歴のかぶる両者だが、横溝によると「その性格も作風もまるで違っていた」。甲賀は「つねに自信満々で闘志旺盛」なのに対し、「大下さんももちろん自信は十分持っていたのであろうがいつのまにやら流行作家になりすましている自分に、どこかテレているようなところがあった」という。論客で堂々と論陣を張る甲賀に対し、宇陀児はあまり議論を好まないほうだった。会って話をしても、甲賀は帝大出の頭のよさがしのばれたが、宇陀児は出来るだけそれをおもてに出さないようトボけていたという。 作風にしても、甲賀は戦前、「本格派の第一人者」として自他共に許し、「常に探偵小説の正道をいくものとして、その作風は大上段にふりかぶって爽快」で、『気早の惣太』のようなユーモアものもあったが、「だいたいが真っ向ひた押し型の堂々たる作風」、反して宇陀児は一作ごとに風俗小説的なキメの細かさを掘り下げていったといい、探偵小説は探偵小説なりに性格描写などに気を配っていた。横溝はその作風について「キメの細かい、しかもさりげない文章のうちに、読者をヒヤリッとさせる着想や描写には、一種独特のものをもっていた」とし、「おなじような経歴をもち、おなじ勤め先から相前後して作家として世に出ながら、その作風がまるでちがっているということは、まことに興味ふかいことだったが、二人とも探偵文壇の巨頭だったことはいうまでもない」と述懐している。
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