外国為替業務への進出 - ドル買い事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 14:50 UTC 版)
「三井銀行」の記事における「外国為替業務への進出 - ドル買い事件」の解説
将来、日本の対外債務増を予測した経営陣は、1913年(大正2年)に外国為替業務に着手。バークレイズ銀行との為替約定に引き続きクラインウォート及びフレデリックヒュースの両社と手形引受約定を結んだのを始めぞくぞくと引受信用と当座勘定契約を締結する。当初は三井物産のためであったが、王子製紙・鐘紡・富士紡のためにも同様の措置をとった。1915年(大正4年)になると外国為替取引高は3000万円に上るようになり、大正六年には上海支店が開設。本店以外の横浜・大阪・神戸などでも輸出手形の買入れ、送金為替の売渡を取扱うようになった。 金解禁によるデフレ効果で強まった再禁止必至の見方は、1931年(昭和6年)イギリスが金本位を停止すると一気にドル買いの嵐が激しくなった。この間横浜正金銀行が売り応じたドル為替の総額は7億6000万円とも言われるがその中には商人・華族・教育家まで含む一般人が25%を占めていた。一方、世界経済もスウェーデン、デンマーク、ノルウェーが金本位を停止し、オランダも後を追って同調する気配となった。日本でも高橋是清蔵相の下で再禁止が行われた。その数ヶ月前には満州事変が勃発しており、池田成彬の単なる三井の事務的な処理が、「ドル買い事件」として朝日新聞に掲載され、批判を浴びた。イギリスが金本位を離脱すると同時にスターリング・ブロックもこれに倣ったため、金本位維持国はアメリカと日本などきわめて少数になった。同時期には、1930年(昭和5年)の右翼団体愛国社員による濱口雄幸首相の狙撃事件、1932年(昭和7年)の井上準之助、團琢磨暗殺事件、五・一五事件と、不穏な事件が相次いで起きた。一方、輸出振興と失業救済を目的とする経済圏拡大と理想国家の建設を目指して満州進出が始まり、日本を財政インフレへ、自由経済から戦争経済へと導いていった。
※この「外国為替業務への進出 - ドル買い事件」の解説は、「三井銀行」の解説の一部です。
「外国為替業務への進出 - ドル買い事件」を含む「三井銀行」の記事については、「三井銀行」の概要を参照ください。
- 外国為替業務への進出 - ドル買い事件のページへのリンク