夏国討伐
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1371年(洪武4年)1月、征虜前将軍として、征西将軍・湯和と分道して夏国討伐に向かった。顧時を副将、呉復らを従えて、秦州、隴西方面から出撃した。朱元璋は「敵の精鋭は東側に集中している。敵は金牛で我が軍を阻むだろう。そこで不意をついて、階州、文州を衝けば、敵は自壊するだろう。兵は神速を貴ぶという。機会を逃してはならない」と諭した。 3月、傅友徳は諸軍を結集して金牛を攻めると噂を流した。そして、5千の精鋭軍を前鋒とし、本軍はそれに続いて、密かに陳倉から昼夜問わず進軍した。 4月に守将の丁世珍を破り、武将18人を捕らえ、階州を攻略した。白龍江の橋が敵軍により落とされていたので、橋を修復して進軍した。五里関に至り、丁世珍は兵を集め、抵抗の構えをとった。汪興祖が飛石に当たって戦死すると、傅友徳は大いに怒り、激しい攻撃を加えた。丁世珍は数騎で敗走し、文州を攻略した。青州、果陽を攻略し、指揮の潘忠を守りにつかせた。江油、彰明の2県を攻略し、白水江を渡り、錦州へ向かった。精鋭を選び、都督僉事・藍玉に率いさせて夜襲を仕掛けた。錦州の守将・向大亨は驚き、軍は混乱した。傅友徳もこれに続いて攻撃した。にわかに大風が起こり、諸軍はこれに乗じて攻め立てたため、向大亨軍は大敗して、漢州へ敗走し、錦州を攻略した。 5月、漢州攻略に向かった。このとき、漢江は増水して渡河は不可能だった。そこで軍船を軍船を作って漢州に至った。瞿塘の友軍を助けるため、削った木材に階州、文州、綿州は占領されたと書いて、漢江に投げ入れた。これを見た敵軍は散りぢりになった。傅友徳が階州、文州を攻略したことを知った夏の丞相・戴寿は漢州へ援軍に向かった。城下で守将の向大亨を破った後、敵の援軍が迫っていることを知った明の諸将は「援軍は遠くからやってきている。向大亨が敗れたと知れば、士気は落ちてしまう。何と無能なことだ」と言った。言葉どおり、援軍を迎え撃って大勝した。 6月、漢州を攻略した。向大亨は成都に敗走し、顧時を漢州の守りにつかせた。文州が丁世珍によって陥落すると、傅友徳は直ちに文州へ向かった。丁世珍は逃走し、軍を再編して秦州を攻めた。傅友徳が救援に向かい、丁世珍を破った。丁世珍は敗走後、梓潼で部下に暗殺された。 7月、進軍して成都を囲んだ。戴寿、向大亨らは城を出て、象兵を使って戦った。傅友徳は強弩火器で迎え撃たせた。体に流れ矢を受けても退かず、将兵は死にものぐるいで戦った。象が暴走し、敵軍は多くの死者を出した。明昇は降伏を決意し、戴寿はこれを聞いて、傅友徳の軍門に降った。傅友徳は成都に入城した。朱亮祖と合流し、降伏に従わない徇州を攻めた。崇慶の知州・尹善清と戦い、これを破り、尹善清を斬った。判官・王桂華は父老を率いて降伏した。 8月、周徳興と合流して、保寧を攻略して呉友仁を捕らえた。これを応天に送り、夏を平定した。その後、保寧の守りについた。夏平定後、朱元璋は平蜀文として旗に『傅一廖二』との語を書き記した。朱元璋は夏討伐において、傅友徳を勲功第一、廖永忠を勲功第二とした。 12月、帰還後に白金250両、綵緞20表を賜った。
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