夏国討伐とは? わかりやすく解説

夏国討伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:10 UTC 版)

傅友徳」の記事における「夏国討伐」の解説

1371年洪武4年1月、征前将軍として、征西将軍湯和と分道して夏国討伐に向かった顧時副将、呉復らを従えて秦州隴西方面から出撃した。朱元璋は「敵の精鋭東側集中している。敵は金牛我が軍阻むだろう。そこで不意をついて、階州文州を衝けば、敵は自壊するだろう。兵は神速を貴ぶという。機会逃してならない」と諭した3月傅友徳諸軍結集して金牛攻めると噂を流した。そして、5千の精鋭軍を前鋒とし、本軍はそれに続いて密かに陳倉から昼夜問わず進軍した4月に守将の丁世珍を破り武将18人を捕らえ階州攻略した白龍江の敵軍により落とされていたので、修復して進軍した五里関に至り、丁世珍は兵を集め抵抗構えをとった。汪興祖飛石当たって戦死すると、傅友徳大い怒り激し攻撃加えた。丁世珍は数騎で敗走し文州攻略した青州、果陽を攻略し指揮の潘忠を守りにつかせた。江油、彰明の2県を攻略し白水江を渡り錦州向かった精鋭選び都督僉事・藍玉率いさせて夜襲仕掛けた錦州の守将・向大亨驚き、軍は混乱した傅友徳もこれに続いて攻撃したにわかに大風起こり諸軍はこれに乗じて攻め立てたため、向大亨軍は大敗して漢州敗走し錦州攻略した5月漢州攻略向かった。このとき、漢江増水して渡河不可能だった。そこで軍船軍船作って漢州至った。瞿塘の友軍助けるため、削った木材階州文州綿州占領されと書いて、漢江投げ入れた。これを見た敵軍散りぢりになった傅友徳階州文州攻略したことを知った夏の丞相・戴寿は漢州援軍向かった城下で守将の向大亨破った後、敵の援軍迫っていることを知った明の諸将は「援軍遠くからやってきている。向大亨敗れた知れば士気落ちてしまう。何と無能なことだ」と言った言葉どおり、援軍迎え撃って大勝した6月漢州攻略した。向大亨成都敗走し顧時漢州守りにつかせた。文州が丁世珍によって陥落すると、傅友徳直ち文州向かった。丁世珍は逃走し、軍を再編し秦州攻めた傅友徳救援向かい、丁世珍を破った。丁世珍は敗走後、梓潼部下暗殺された。 7月進軍し成都囲んだ。戴寿、向大亨らは城を出て象兵使って戦った傅友徳強弩火器迎え撃たせた。体に流れ矢受けても退かず、将兵死にものぐるい戦った。象が暴走し敵軍多く死者出した明昇降伏決意し、戴寿はこれを聞いて傅友徳軍門に降った傅友徳成都入城した朱亮祖合流し降伏従わない徇州を攻めた崇慶知州・尹善清と戦い、これを破り、尹善清を斬った。判官・王は父老を率いて降伏した8月周徳興合流して保寧攻略して呉友仁を捕らえた。これを応天送り、夏を平定した。その後保寧守りについた。夏平定後、朱元璋は平蜀文として旗に『傅一廖二』との語を書き記した朱元璋は夏討伐において、傅友徳勲功第一廖永忠勲功第二とした。 12月帰還後白金250両、綵緞20表を賜った

※この「夏国討伐」の解説は、「傅友徳」の解説の一部です。
「夏国討伐」を含む「傅友徳」の記事については、「傅友徳」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「夏国討伐」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「夏国討伐」の関連用語

1
12% |||||

2
10% |||||

3
8% |||||

4
4% |||||

夏国討伐のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



夏国討伐のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの傅友徳 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS