執筆時のエピソード
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少年チャンピオンコミックス版『ふたりと5人』第1巻(1974年5月刊)は、吾妻ひでお最初の単行本である。 同誌掲載の『きまぐれ悟空』連載終了後、『オーマイパック』(全3話)が掲載された翌週から『ふたりと5人』は始まっている。ここではハレンチコメディ路線で売ろうとした担当編集者の阿久津邦彦の熱心な介入のもとで嫌々ながらも連載し、中ヒットする。しかしこれは吾妻にとって不本意な作品であったという。吾妻によれば、キャラクターや設定、タイトルなどはすべて編集者主導で決められたもので、ハードな週刊連載と秋田書店の無茶な編集の注文などで、当時「出力20%くらい」しかやる気を出していなかったという。もちろん絵、共に内容は荒れ、忘年会で編集者が作品の質の低下に酔った勢いで暴言を吐くこともあったという。吾妻曰く「あーホント、描きなおしたいね、今からでも(笑)」。編集者は「ハダカ」(エロ)ばかり要求し、ギャグとSFには無関心だった。吾妻は自分本来の資質とのギャップに悩む。吾妻は連載終了を編集部に再三申し入れたが、人気がなくなるまで受け入れられなかった。 この作品の影響で、漫画の仕事は“エッチもの”ばかりで、読者からはエログロの烙印を押され、毎日のように罵詈雑言が書かれた抗議の手紙が届き、辛かったことを吾妻は後に回顧している。この頃、吾妻は漫画に対する情熱を失い、仕事のためだけに漫画を描いていたという。 後に宙出版から復刻された単行本(全6巻)のカバーには「『ふたりと5人』の頃は、月産130ページくらい描いてた(描かされてた)。当然、頭ボロボロ、絵はとてもマニアック。毎日デンジャラスなファンレターが届く。そいでも、人気なくなればあっさりさよならだ。怖い世界だっせ、お客さん。」と自虐したコメントを寄せている。この再版された単行本の巻末エッセイには、巻ごとに和田慎二、竹本泉、萩尾望都、坂田靖子、中山星香、高橋留美子がエッセイを寄せている。 次作の『チョッキン』終了で秋田書店と縁が切れ、活躍の場をマイナー誌に移していき、本来のSFやギャグを描きたいように描けるようになると、80年代に“吾妻ブーム”を巻き起こし、本人も「夢のようだった」と回想する。吾妻は漫画に対する情熱を徐々に取り戻したが、気が付くと原稿を落とし、鬱と不安に襲われ、自殺未遂して失踪して家へ帰ってまた失踪して配管工になったり、アル中になったりするのであった。
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執筆時のエピソード
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長谷川は、西日本新聞社の絵画部に所属していた。1946年『夕刊フクニチ』に彼女は連載漫画を頼まれた。自宅の近所である百道海岸付近を妹と散歩しているときに、本作の家族構成や名前を思いついた。当初は作者自身は、アルバイトのつもりでやっていた、と語っている。 連載を再開する際、作者本人が、マスオの顔を忘れていて、西日本新聞社東京支局まで行き確認したエピソードがある。 その後、作者の希望より東京に引越した。1951年に「ブロンディ」の後を承けて朝日新聞の朝刊を飾ることになる。 連載末期には月曜日が休みとなった。
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