執筆出版の経緯とは? わかりやすく解説

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執筆・出版の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 07:50 UTC 版)

フロイス日本史」の記事における「執筆・出版の経緯」の解説

1579年イエズス会司祭ジョヴァンニ・ピエトロ・マフェイ(イタリア語版)はポルトガル国王エンリケ1世の命により、『ポルトガル領東インド史』の編纂開始した。この時マフェイは、当時すでにインド日本からの通信者として知られていたルイス・フロイスの事を思い出し同年11月6日イエズス会4代総長エヴェラール・メルキュリアン(英語版フランス語版スペイン語版)への書状出しフロイス布教第一線から引かせヨーロッパ後進日本布教赴く際の資料とするために日本でのキリスト教布教史を書かせるよう依頼した総長メルキュリアンはこれを承諾しインド管区巡察アレッサンドロ・ヴァリニャーノ指令出した1583年秋、フロイス口之津ガスパール・コエリョからこの指令受け取った。彼は以後10年以上にわたって執筆続け時には1日10時間以上執筆行ったという。 翌1584年には第1巻日本総記」(現在では「日本総論」の目次除き逸失)を書き上げ1585年6月14日には『日欧文化比較』を加津佐執筆1586年天正14年)、日本史1549~78の部がおおむね完成した頃、コエリョと共に五畿内をまわり、大坂城豊臣秀吉謁見するなどした。 1587年秀吉バテレン追放令発布したが、フロイス宣教師日本出てはいない。 その後フロイス1592年まで日本執筆続け同年10月9日ヴァリニャーノとともに日本発ちマカオ到着この後1594年第三部完成した。ところが、この時に原稿検閲したヴァリニャーノは、自身多忙なことや、あまりにも記事膨大で本来の執筆趣旨反する事を理由に、編集加えて短縮することを命じた。だがフロイスはこれに応じず、「原型のままローマ送付させてほしい」と時の総長クラウディオ・アクアヴィーヴァ(英語版イタリア語版スペイン語版)あてに書簡出している。 1595年フロイス日本戻っていくつかの年報報告書作成した後、1597年没した彼の原稿マカオマカオ司教座聖堂留め置かれそのまま忘れ去られた。 1742年、ようやくポルトガル学士院同書写本作成して本国送付した1835年司教座聖堂焼失した際に原本失われた思われる写本各地散逸した後年再度蒐集され、行方不明となった第1巻以外は20世紀以後徐々に刊行されるようになった詳細下記参照)。

※この「執筆・出版の経緯」の解説は、「フロイス日本史」の解説の一部です。
「執筆・出版の経緯」を含む「フロイス日本史」の記事については、「フロイス日本史」の概要を参照ください。

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