地方病の病体解剖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/26 16:16 UTC 版)
山梨県内における地方病 (日本住血吸虫症)撲滅に尽くした医師の一人である吉岡順作により開かれた、山梨県における最初の試みである地方病の病体解剖の執刀は、明治30年(1897年)6月6日に当時の山梨県病院院長であった下平によりなされており、6月8日付の山梨日日新聞がその模様を伝えている。 死体解剖の模様 予記の如く一昨日午後二時より西山梨郡清田村字向村寺院(盛岩寺)に於て同村杉山なかの死体を開剖せしが同日午前十時より東山梨郡東八代両郡の医師は西山梨郡甲運村甲運亭に会合して諸般の打合せを為し正午十二時同寺院に赴きしが来会する者五十七名客員には山梨病院より下平、近藤、一野辺、諸角、岡、村上の六氏及び中巨摩郡よりは小沢鹿十郎氏出張し執刀は下平氏助手は吉岡、辻、久保川、岡の諸氏にして法の如く精密なる解剖を行ひ各臓器を悉く剖検し尚ほ疑はしき個所は顕微鏡を以て検査をなしたるが既に既に日没頃に際したれば充分の検証を得難かりし由なれども内蔵の変化中殊に脾臓の肥大肝臓の委縮門脈系統の変状は病理上大に研究を要すべきものにして該病は此等の現象に依りて現発せらるべきものに相違なかるべきものに相違なかるべしという孰れ其の報告は充分なる顕微鏡的な検査を遂げたる上之を発表する筈なり因みに記す本病は本県下に最も多く又女子よりは男子の患者多く病原は飲用水の不良に基くものにして不治の病症なりといへり同日吉岡医師は両郡の医師を代表し仏前において右の弔詞を朗読したり (弔詞略) — 明治30年(1897年)6月8日付「山梨日日新聞」 また、大日本衛生会山梨支部が発行する「大日本衛生会山梨支部会報」第八号(明治30年)に掲載された、医師の小沢鹿十郎による「地方病性腹水ニ就テ」と題する報告文の文末に、下平の付記として地方病についての意見が述べられている。 「地方病性腹水ニ就テ」の付記 小沢氏ノ所謂「地方病性腹水病」ニ就テハ余モ久シク氏ニ感ヲ同ウシ之ガ研究ニ従事シツツ有ルモ未ダ充分ノ成績ヲ得ルニ至ラズ只余ハ茲ニ一言シ置カンコトハ本病ハ恐ラク一種ノ動物性寄生虫ニ因スル者ニシテ余ハ嘗テ本病ノ為ニ斃レタル者ノ屍体ヲ剖見シテ肝臓内ニ無数ノ顕微鏡的小虫卵ヲ見タルコト是アリ 医学士 下平用彩 — 「大日本衛生会山梨支部会報」第八号 明治30年(1897年)
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