山梨県地方病研究の端緒
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山梨県内における地方病 (日本住血吸虫症)撲滅に尽くした医師の一人であり、地方病の病体解剖への道を開いた吉岡は、自身が著した『地方病(日本住血吸虫病)病原虫の石灰死滅に関する研究』昭和13年(1938年)刊において、地方病研究の端緒について記している。 山梨県地方病研究の端緒 前余が開業地の附近には山梨県特有の腹水患者多く西山梨郡玉諸村向村組杉山仲子(五十四歳)又同病に侵され年月の久しき同僚辻直記氏の立会を求め治療せしも其効果を認めず、明治三十五年五月回春の見込なきを自覚し自ら進んで病原の研究を切望す。依て東八代郡同盟医会員と協議し東山梨郡及甲府市医会員に予め此の件を通達し置きしを以て死亡と同時に六月五日檄を飛ばし県病院長下平用彩氏執刀解剖す。其の結果肥大せる肝脾と腸壁及び肝臓内に虫卵様のものを認めたり、東八代郡同盟医師会は義烈を賛し、同村盛岩寺境内に熊谷県知事の篆額を請ひ、碑を立て以て其の意功を永遠に伝ふ、古来より本県下に潜在湖浸、病原不明不可思議なる腹水症とし療法なきを憂ひ、当時解剖は一般民衆の恐怖嫌畏するに拘らず社会の為め死後の解剖を決意し、研究資料に供したる女丈夫の義行により此の仮面を剥奪す、之れ地方病研究の端緒にして又本県病体解剖の嚆矢なり、再び茲に其の真相を叙述す。 — 『地方病(日本住血吸虫病)病原虫の石灰死滅に関する研究』昭和13年(1938年)
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