園田実徳と武彦七
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競馬一族としての武家の祖は、薩摩藩士園田家から武家へ養子に入った武彦七(1860年-1928年)である。その実兄・園田実徳も大きな影響を及ぼした。両者の父・園田彦右衛門は武家の出で、彦七は武家へ戻る形となっていた。歴史学者の大江志乃夫は、西郷隆盛に私淑していた実徳が、西南戦争に近衛少尉として従軍し戦死した武清澄の跡を弟に継がせたものだと推定しており、これに従えば彦七が養子に入ったのは1877年以降のことになる。 園田実徳 武彦七 明治維新後、兄弟は開拓使として北海道函館に渡った。一緒か別々かは定かではないが、実徳が開拓使出仕を命じられたのが1872年のことである。渡函後、彦七は開拓使官園の七重勧業試験場に勤務し、実徳は道南部の船舶・鉄道運輸整備事業に参画して財を成した。実徳は実業の一方、1883年に函館大経ら4名と共に北海道競馬会社の発起人となり、従来村落単位で行われていた祭典競馬を脱する、本格的な競馬の開催を主導。1900年に函館競馬会が発足すると、彦七も審査員として運営に携わった。さらに1903年、家畜改良の必要を感じた実徳は、北海道庁から函館市桔梗町の土地を借りて園田牧場を創業、その経営を彦七に任せた。 彦七はまた、日本近代馬術の祖・函館大経に師事してフランス馬術を学び、自らも「乗馬をするのに手綱は不要、木綿糸一本あれば鞍下に日本紙を入れておいても皺にならぬ」と賞される名手となった。端正な容姿で貴公子然とした彦七は、「函都道南の婦女子渇仰の的」であったとされる。主な弟子に谷栄次郎がおり、梅田康雄や加用正が孫弟子に当たる。また長男・芳彦によれば、後に日本競馬界で「大尾形」と称される尾形藤吉や、その兄弟子の内藤精一、大正期の横浜に大厩舎を構えた仲住与之助も彦七の薫陶を受けた。 彦七には7人の子があり、うち長男の芳彦が園田牧場を継いだ。次男・房彦は函館で酪農に従事、三男・輔彦は内藤精一、四男・平三は元石吉太郎、五男・富三は尾形藤吉の元でそれぞれ騎手となった。
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