園田実徳と武彦七とは? わかりやすく解説

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園田実徳と武彦七

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 01:24 UTC 版)

武家 (家族)」の記事における「園田実徳と武彦七」の解説

競馬一族としての武家の祖は、薩摩藩園田家から武家養子入った武彦七(1860年-1928年)である。その実兄・園田実徳大きな影響及ぼした両者の父・園田右衛門武家出で、彦七は武家へ戻る形となっていた。歴史学者大江志乃夫は、西郷隆盛私淑していた実徳が、西南戦争近衛少尉として従軍し戦死した武清澄の跡を弟に継がせたものだと推定しており、これに従えば彦七が養子入ったのは1877年以降のことになる。 園田実徳 武彦明治維新後、兄弟開拓使として北海道函館渡った一緒か別々かは定かではないが、実徳が開拓使出仕命じられたのが1872年のことである。渡函後、彦七は開拓使官園の七重勧業試験場勤務し、実徳は道南部の船舶鉄道運輸整備事業参画して財を成した。実徳は実業一方1883年函館大経ら4名と共に北海道競馬会社の発起人となり、従来村落単位行われていた祭典競馬脱する本格的な競馬の開催主導1900年函館競馬会発足すると、彦七も審査員として運営携わった。さらに1903年家畜改良の必要を感じた実徳は、北海道庁から函館市桔梗町土地借りて園田牧場創業、その経営を彦七に任せた。 彦七はまた、日本近代馬術の祖・函館大経師事してフランス馬術学び、自らも「乗馬をするのに手綱不要木綿糸一本あれば鞍下日本紙入れておいても皺にならぬ」と賞され名手となった端正な容姿貴公子然とした彦七は、「函都道南の婦女子渇仰の的」であったとされる主な弟子に谷栄次郎がおり、梅田康雄や加用正孫弟子に当たる。また長男・芳彦によれば、後に日本競馬界で「大尾形」と称される尾形藤吉や、その兄弟子内藤精一大正期横浜大厩舎構えた仲住与之助も彦七の薫陶受けた。 彦七には7人の子があり、うち長男の芳彦が園田牧場継いだ次男・房彦は函館酪農従事三男・輔彦は内藤精一、四男・平三は元石吉太郎、五男・富三は尾形藤吉の元でそれぞれ騎手となった

※この「園田実徳と武彦七」の解説は、「武家 (家族)」の解説の一部です。
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