北海道競馬会
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同じく1905年、桂太郎内閣のもとで馬券の発売を黙許する通達が出され、翌1906年4月に東京競馬会が主催する競馬が成功を収めると、日本各地で政府公認の競馬会を設立する動きが活発化する。当時札幌において競馬を主催していた北海道乗馬会もまた、政府公認の競馬会を設立するべく活動を開始。1906年10月10日に同会競馬部が分離独立する形で北海道競馬会を設立。翌1907年4月24日、社団法人として政府の認可を受けた。 なお、このとき設立の要件として一定以上の規模の競馬場を有することとされたが、札幌における従来の競馬場(中島遊園地競馬場)はコース長が足りず要件を満たしていなかったため、1907年には北海道乗馬会が北海道競馬会とは別に設立した札幌馬匹奨励株式会社が琴似川東岸にあった子取川農場の敷地を買収して新競馬場を建設した(子取川競馬場)。これが現在の札幌競馬場である。 新設した子取川競馬場(現在の札幌競馬場)はコース長1マイル(1600メートル)コース幅約38.2メートルの馬場を持ち、4棟の厩舎を新築、2棟の馬見所(スタンド)は中島遊園地競馬場から移設した。 競馬黙許にあたって設立された北海道競馬会は明治40年秋に第一回目の競馬を行う。翌明治41年春秋の競馬は盛大に行われた。しかし、馬券は黙認であって公認ではなく、したがって規則や取り締まりも明確ではなく、いたずらに射幸に走るものが多く弊害が大きかったので政府は明治41年10月馬券発売を禁止した。賭けが黙認されることで成立した日本各地の競馬会は大混乱し、北海道競馬会も同じく動揺した。全国の競馬会は馬券復活を求めて大々的に政治活動に乗り出し多くの衆議院議員を味方に引き入れるが政府および貴族院の態度は硬く、結局は馬券公認はならず、各競馬会への補助金で折り合う。北海道競馬会の持田謹也も馬券復活を求めて盛んに政治活動を行った者の代表の一人である。この明治39年から明治41年までの馬券黙許に伴う日本各地での競馬会と競馬場の林立、賭博としての競馬の隆盛と弊害、再度の馬券禁止とその混乱の時代を「馬券黙許時代」という。馬券黙許時代の次に来るのは補助金競馬である。札幌の競馬もこの流れにのみ込まれていく。
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