哲学における不条理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 02:58 UTC 版)
哲学的意味における不条理は、世界に意味を見いだそうとする人間の努力は最終的に失敗せざるをえないということを主張する。そのような意味は少なくとも人間にとっては存在しないからである。この意味での不条理は、論理的に不可能というよりも人間にとって不可能ということである。 2世紀のキリスト教神学者テルトゥリアヌスの言とされる「不条理なるが故に我信ず (credo quia absurdum) 」という言葉は、キリスト教信仰の理性による解釈を拒絶したものといえる。理性によって不可能と判断されるイエスの復活は、まさにそれゆえにこそ確実なのだとテルトゥリアヌスは考えた。 19世紀に不条理の観念に注目したのがデンマークの哲学者キルケゴールである。キルケゴールは『おそれとおののき』の中で、旧約聖書で物語られるアブラハムの逸話を解釈しながら、あらゆる倫理的義務に反してアブラハムが神に捧げるため息子を殺そうとし、その結果信仰が確証されるという物語に不条理を読み取っている。 20世紀半ばに再び不条理の意識に注目したのが実存主義である。とりわけフランスで、 カミュやサルトルらによって不条理の倫理的美学的次元が探求された。実存主義において「不条理的」という形容は、既存の意味の全てを剥ぎ取られたものに対して用いられる。「不条理」という言葉が用いられる時、世界が根本的に不条理であること、人間の条件はそもそも不条理であって、無根拠であることが喚起されている。 カミュは『シジフォスの神話』の中で、不条理な英雄としてシーシュポスを描いている。つまり、神々を怒らせることになるのを意に介さず生への情熱を貫徹するからである。ちなみに、決して頂上にとどまることの無い岩を、転げ落ちるごとになお運び上げ続けざるを得ないシーシュポスの苦役は神々からの処罰のためなのだが、そんなものは捨ておけという意味でカミュは、シーシュポスをその山の麓にとどめようとする。 不条理主義者の哲学の中では、不条理は人による世界の意味の追究と世界の明らかな意味のなさの基本的な不調和によって生じるとされる。意味を持たない世界で意味を探す。人はこのジレンマを解決する3つの方法を持っている。キルケゴールとカミュはその解決法を著書の中で書いている。『死に至る病』と『シーシュポスの神話』である。 自殺:まずシンプルな1つの方法として人生を終わらすということ。キルケゴールとカミュはこの方法が非現実的であるとして退けている。 盲信:不条理を超えた何か、触れられず実験的に存在が証明されていないものを信じること。しかしそれをするには理性を失くす必要がある(すなわち盲信)、とキルケゴールは言っている。カミュはこれを哲学的自殺として考えている。 不条理を受け入れる:不条理を受け入れて生きる。カミュはこの方法を推奨しているが、キルケゴールはこれを「悪魔に取り付かれた狂気」として、自殺を引き起こす可能性を論じて批判している。
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