哀帝の即位と尊号問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 18:29 UTC 版)
綏和2年(前7年)の3月に成帝が崩御し、4月に哀帝が即位すると、王太后は詔して傅太后と丁姫を10日に1度未央宮に行かせることにした。哀帝は丞相の孔光と大司空の何武に、傅太后の在所をどこにするか諮問した。孔光が傅太后が哀帝に会って政事に参与することを恐れ、新しく傅太后の宮殿を建てることを主張する一方で、何武は既存の桂宮を在所とするよう提案した。何武の意見が採用されると、傅太后は桂宮から復道を通じて未央宮の哀帝のもとへ行き、自らを称す尊号と親族の尊重を求めるようになった。 それに前後して、董宏が哀帝の意を汲み、丁姫を皇太后にするよう上奏した。左将軍の師丹と大司馬の王莽がこれに反対し、董宏が不道であると弾劾した。哀帝は即位して間もなかったため、師丹と王莽の意見に従い、董宏は庶人に貶された。傅太后は大いに怒り、自らの尊号を求めた。。この頃、未央宮で宴会が開かれた際、王莽は傅太后の座席が王太后の隣に設定されているのを見て、「定陶太后(傅太后)は藩妾である、どうして至尊(王太后)と並ぶことができようか」と担当者を責めた。それを聞いた傅太后は激怒し、宴会に出席せず、王莽を怨んだ。これを受け、王莽は大司馬を辞任した。 その後、王太后の詔により、定陶恭王(劉康)を「恭皇」と尊んだ。5月、哀帝は傅太后の従弟の傅晏(中国語版)の子の傅氏(中国語版)を皇后に立てると、詔して傅太后を「恭皇太后」、丁姫を「恭皇后」とし、それぞれに左右詹事を置き、食邑も王太后・趙太后と同等とした。また傅太后の父を「崇祖侯」と追尊し、傅晏を孔郷侯に封じた。「恭皇太后」と「恭皇后」は、それぞれに「皇太后」「皇后」の語を入れて傅太后と丁姫に敬意を示しつつも、諸侯王を示す「恭」の字を残し、また「恭皇の太后」と「恭皇の后」という解釈もできるようにし、師丹・王莽らの反対派に配慮を示した折衷案であった。しかし、郎中令の冷褒・黄門郎の段猷らが上奏し、「恭皇太后」「恭皇后」の称号に諸侯国を表す名を冠すべきでないとし、また長安に恭皇の廟を立てることを求めた。これには多くの有司が賛成したが、師丹が反対した。 同年には、傅喜が衛尉、ついで右将軍となっている。傅太后が政事に関わろうとすると、傅喜がしばしば諌めてきたため、傅太后は傅喜に大司馬として輔政させようとしなかった。しかし、建平元年(前6年)、大司空の何武・尚書令の唐林の上奏により、傅喜が大司馬となり、高武侯に封ぜられた。 傅太后は王太后(太皇太后)と同等の尊号を望んでいた。しかし、丞相の孔光・大司馬の傅喜・大司空の師丹がそれに反対していたため、傅太后の怒りを買っていた。建平元年(前6年)10月に師丹が大司空・高楽侯から罷免され、朱博が大司空となった。ついで傅喜が建平2年(前5年)2月に大司馬から罷免され、丁姫の兄の陽安侯丁明が後任となった。孔光も傅氏や朱博の讒言を受け、建平2年(前5年)4月に丞相・博山侯から罷免された。後任の丞相は朱博となった。 同月、朱博の提案に従って哀帝が詔を出し、傅太后を「帝太太后」と尊んで「永信宮」と称し、丁姫を「帝太后」と尊んで「中安宮」と称すことにした。それにより王太后(太皇太后)・趙太后(皇太后)と合わせて4人の太后が並び立つこととなった。それぞれに秩中二千石の少府・太僕が置かれていた。 王莽は大司馬を辞めた後も特進・給事中として長安で政治に参与していた。朱博は以前に王莽が傅太后が尊号を称すことに反対していたことを理由に、新都侯の爵位を剥奪するよう上奏した。哀帝は、王莽が王太后の親族であることから、爵位の剥奪まではせず、新都侯国に就くよう命じた。また、朱博は傅太后と傅晏の意向を受け、傅喜を列侯からも罷免するよう上奏した。しかし、それが傅太后の讒言によるものであることが発覚したため、傅晏は食邑を削減され、朱博は獄に下された。同年8月、朱博は自殺した。建平4年(前3年)には、傅太后の従弟で侍中の傅商が汝昌侯に、異父弟の鄭惲の子の鄭業が陽信侯に封ぜられた。 傅太后は尊号を受けると驕奢をきわめ、王太后を「嫗」(ばば)と呼んだ。また、劉興(中山孝王)の母の馮太后(中山太后)は傅太后とともに元帝につかえていたため、傅太后は馮太后を怨んでおり、呪詛の罪に陥れて自殺させた。建平4年(前3年)、傅太后は「皇太太后」とされた。 四太后の称号の変遷皇帝年王政君傅昭儀趙飛燕丁姫元帝 前48年-前33年 皇后 昭儀 - - 成帝 前74年-前7年 皇太后 定陶太后 皇后 定陶王姫 哀帝 前7年 太皇太后 恭皇太后 皇太后 恭皇后 前5年 帝太太后 帝太后 前3年 皇太太后 - 前2年 (追)孝元傅皇后 平帝 前1年-後6年 (追)定陶恭王母 孝成皇后 (追)丁姫
※この「哀帝の即位と尊号問題」の解説は、「傅昭儀」の解説の一部です。
「哀帝の即位と尊号問題」を含む「傅昭儀」の記事については、「傅昭儀」の概要を参照ください。
- 哀帝の即位と尊号問題のページへのリンク