名称決定までとは? わかりやすく解説

名称決定まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 00:11 UTC 版)

東京ディズニーリゾート」の記事における「名称決定まで」の解説

1983年4月15日アメリカ国外では初となる「ディズニーパーク」、「東京ディズニーランド (TDL) 」が開園した1970年代立て続け発生したオイルショックの後の、ゆるやかな経済成長時にオープンしたこのパークは、「余暇をいかに楽しむか」を考え余裕出てきた日本人の心をつかみ、初年度は1036万人もの入園者を数えたその後、「科学万博つくば85」の開催や、バブル景気影響され全国各地建設されスキー場ゴルフ場遊園地中でも、強い独自色発揮し着実に入園者数増やしていった。 1986年1月ウォルト・ディズニー・カンパニー(以下、ディズニー)は、TDL経営運営するOLC対し舞浜地区全体開発目指した「東京ディズニーワールド構想」を提案してきた。OLC社内での検討の末、1988年4月15日開かれたTDL開園5周年記者会見席上で、会長高橋政知当時)が「第2パーク構想」について発表する。ただし、当時ディズニーでは、ディズニーパークホテルなどの複合体を「リゾート」とは呼んでおらず、唯一複合体をなしていたのは、フロリダウォルト・ディズニー・ワールドだけであったその後いくつもディズニー側から提案OLC側での検証や、OLC社内意見の相違などを経てTDLに次ぐ第2のディズニーパークである「東京ディズニーシー (TDS) 」を始めとして、「イクスピアリ」、「ボン・ヴォヤージュ」など、現在のTDR形作る施設全体像決まってきた。そんな中、ウォルト・ディズニー・アトラクション・ジャパン (WDAJ) 社長当時)のジム・コーラ(現・ディズニーレジェンド)とOLCとの間でやり取りされた書簡文中に「東京ディズニーリゾート」という名称が初め出てきた。当初OLC舞浜地区全体を「舞浜リゾート」と呼び、そのエリア中にディズニー関連施設その他の施設共存するイメージ持っており、自社敷地すべてに「ディズニー」のブランドかぶせられることに難色示したその後OLC独自の施設リゾートに含む全体計画についてはディズニー合意できたものの、リゾート全体を表す名称についてディズニーOLC意見の相違残った。 このリゾート全体に「ディズニー」の名称を使えるというアメリカ側提案について、OLC側は自社リゾート」の名称に対してディズニーによる一方的な命名」であると公式に不快感示したが、最終的にディズニー側からの「東京ディズニーリゾート」の名称使用正式な提案受け入れ、これがそのまま正式な名称となった

※この「名称決定まで」の解説は、「東京ディズニーリゾート」の解説の一部です。
「名称決定まで」を含む「東京ディズニーリゾート」の記事については、「東京ディズニーリゾート」の概要を参照ください。

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