史料考証
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 15:13 UTC 版)
『魏志』夫余伝の後文において、耆老が登場し、伝世する玉璧・珪・瓚などについて、「先代の賜わりし所なり」と言っており、この耆老の説は、現地に行った魏人が聞いたものとみられるが、魏の高句麗遠征に先だって玄菟太守王頎が夫余に派遣されたときとみるのが、可能性が高い。その伝世している宝物に印章があり、印文に「濊王之印」とあるといい、また濊城とよばれる古城もあり、それを通して、撰者は「この地は本来、濊・貊の地であって、夫余人は、そのなかで王になっているということである。だから、自ら『亡人』といっているのは、そもそも理由があることである」と述べている。これは撰者の意見というべきものであるが、撰者の理解のように、夫余人は本来の濊の住地に流入してきた「亡人」と認めるべきかもしれない。『魏略』にみえる夫余の始祖神話が、事実を背景にしているととらえれば、夫余人は北方から南下して濊の住地に流入してきた、ということになり、夫余の習俗に、殷との関わりがありそうなものがあることから、殷あるいは中国から流入してきた、とする理解もある。また「亡人」説とは別に、濊族のなかから成長した一群を、夫余人と呼んだ、という可能性がないわけではなく、吉林市など、夫余初期の中心地における、夫余文化に先行する文化としての西団山文化などの解明がカギを握っている。 『魏志』東夷伝には、「東夷での古くからの言い伝え(東夷の舊語)では、 高句麗は夫余の別種であるという。言語やいろいろなことは夫余と同じものが多いが、その性質・気性や衣服には、異なるものがある」とある。しかし、「東夷の舊語」というのは、それほど信頼性のない伝聞であり、言語・諸事が夫余と同じものが多いというが、具体的に同じものについての言及はない。夫余の習俗についてはよくわからないが、知りうるわずかな材料である墓制については、夫余が土坑墓であるのに対して、高句麗は積石塚であって、まったく異なり、性気・衣服に異なるものがあるとするが、表面的なものはともかく、民族的にどれほどの類縁制があるかどうかは、調査が必要である。
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