史伝文学の復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 07:20 UTC 版)
海音寺を語るときに取り上げられる話題のひとつとして、史伝文学の復興に対する功績がある。これは後年、海音寺が菊池寛賞を受賞したときにも選出理由として挙がっている。 史伝文学とは、歴史上の人物や事件を対象として作品を物語風に記述にあたっても、フィクションの要素を完全に排除し、広範かつ詳細な文献調査などをもとにして、歴史の真実はどのようであったかを明らかにしようとする形態の書物を指す。 日本においては、明治期の山路愛山、福本日南、徳富蘇峰など、大正期の森鷗外や幸田露伴、白柳秀湖などが史伝を執筆していた。しかし、昭和期に入ると、新しい書き手の台頭もなく、ジャンルとしての人気も衰えていった。このような中、海音寺は日本人から日本歴史の常識が失われつつあるとして当時の状況を憂慮し、本人の表現を借りると「文学としての史伝復興の露ばらいの気持ち」を込めて、歴史の真実を伝える史伝文学の執筆に精力的に取り組むことになった。また、歴史はまず文学から入るべき、という考えを持っており、日本の義務教育制度における歴史教育について、子供に最初から史実のみを社会科学的に教えることは、歴史への関心を失くすとともに、一方の側からのみの宣伝を教えることになると批判的でもあった。 その代表作が1959年から『オール讀物』(文藝春秋)に連載された「武将列伝」と「悪人列伝」である。この両作品に収録されている人物伝は、各編が独立した読み物の形式になっているが、これらを時代順に並べ替えて読めば日本歴史の全体が分かる内容となるように、それによって日本人に日本歴史の常識を持ってもらいたいとの希望を持って執筆された。海音寺は「できれば200人、少なくとも100人の人物伝」を書き上げたいと考えていたが、結局、武将列伝33人、悪人列伝24人の計57人の段階でまとまった作品として出版することになった。想定通りの人数に達しなかったことについて海音寺は「恥をしのんで出す」とその心境を述べている。 上記の作品の他にも『列藩騒動録』や『幕末動乱の男たち』など多くの史伝を執筆しているが、これらの作品に触発され、その後、いろいろな作家が史伝を発表するようになった。これについて海音寺は「露ばらいをつとめたつもりのぼくとしては、この上ないよろこびである」との感想を残している。
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