古語拾遺・先代旧事本紀の記述
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「安房神社」の記事における「古語拾遺・先代旧事本紀の記述」の解説
安房神社祭神に関しては、忌部氏(いんべうじ、のち斎部氏)の手になる『古語拾遺』(大同2年(807年)成立)、および『先代旧事本紀』(平安時代初期頃成立か)に記された阿波忌部の東遷説話が知られる。これによれば、忌部氏遠祖の天富命(あめのとみのみこと/あまのとみのみこと:天太玉命の孫)は、各地の斎部を率いて種々の祭祀具を作っていたが、さらに良い土地を求めようと阿波地方(現在の徳島県)の斎部を率いて東に赴き、そこに麻(アサ)・穀(カジノキ)を植えた。そして、阿波斎部が移住したのでその地は「安房郡」と名付けられてこれが安房国の国名になったとするほか、同地には祖神を祀る「太玉命社」が建てられてこれが「安房社」であるとし、その神戸(神社付属の民戸)には斎部氏があるとする。 即於其地立太玉命社。今謂之安房社。故其神戸。有斎部氏。 — 『古語拾遺』 このように、説話では阿波地方から安房地方に忌部(斎部)が移住したように記されるが、安房神社の由緒でもこれを踏襲し、安房神社の神職もかつては安房忌部の正統を称する岡島氏が担っていた。加えて『延喜式』神名帳に記される「安房坐神社」という社名についても、忌部氏本貫地に鎮座する天太玉命神社(奈良県橿原市)と区別する意味の「安房坐天太玉命神社」を省略したものとする説が挙げられている。また「大神宮」という旧称と、豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の相殿に天太玉命が祀られることとを関連付ける説もある。安房地方では、安房神社のほかにも洲崎神社(館山市洲崎)、洲宮神社(館山市洲宮)、布良崎神社(館山市布良)、下立松原神社(南房総市白浜町・南房総市千倉町の2社)などで同様の忌部氏による開拓伝承が残ることも知られる。 以上の一方、古代史料では安房郡司・安房神社神職など安房地方の在地関連人物で忌部の存在は知られず、むしろ安房地方に濃密に分布したのは後述する膳大伴部(かしわでのおおともべ)であったことが知られる。そのため『古語拾遺』の説話の史実性は否定の向きが強く、『古語拾遺』自体が中臣氏との勢力争いの中で忌部氏の正統性と格差是正の目的で編纂されたものであるため、安房への東遷説話は造作で東国(特に常総地方)の中臣氏勢力と対抗する目的があったと指摘する説がある。また、数少ない安房関係人物として天平2年(730年)の「安房国義倉帳」に安房国司の目と見える忌部宿禰登理万里(忌部鳥麻呂か:中央から赴任した可能性が高い)の存在から関連づけたと推測する説や、安房神社の祭祀・神戸に忌部氏の関与を仮定すればこれに阿波忌部が結びつけられたと推測する説、そのほか古くから黒潮を通じて人々の交流があったこと(黒潮文化圏)が説話成立の背景にあると見る説などもある。
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