原曲「丸の内音頭」
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もともとは「丸の内音頭」という曲名で1932年(昭和7年)に制作され、日比谷公園での盆踊り大会で披露された。関東大震災で壊滅した東京も同年7月の市町村合併で人口約530万の世界第2位の都市になり、有楽町の商店街の旦那衆(日比谷松本楼の小坂光雄、更科の藤村源三郎、富可川の井上忠次郎、都亭の岩佐善三郎、並木の森平四郎)は不況を吹き飛ばす景気づけとして、それまでなかった都会の盆踊りを企画し、ビクターに音頭の作成を依頼した。作詞を西条八十、作曲を中山晋平が手掛け、歌は日本橋葭町の芸者だった藤本二三吉(当時は葭町二三吉)と、民謡歌手の三島一声がそれぞれ吹き込んだ。丸の内音頭会長となった更科の藤村が警視庁に日比谷公園での盆踊り開催を申請し、同年8月15日から5日間行われた。揃いの浴衣さえ用意すれば誰でも参加でき、同月18日には丸の内音頭がラジオで全国に初披露された。永井荷風によると、その盆踊り大会は美松百貨店の広告であり、その百貨店で浴衣を購入しなければ参加できなかったという。歌詞には丸の内、三宅坂、数寄屋橋などの地名が織り込まれている。作詞した西条は、「この音頭が揃い手拭、揃い浴衣ではじめて踊られたあの日比谷公園のすずしい月の夜を、わたしは永く忘れないであろう」と述べている。 その後、レコード会社が「隅田」「武蔵野」などを入れて東京一円のご当地ソングとして売り出したという。「丸の内音頭」のレコードはビクターから発売され、A面が藤本二三吉、B面は三島一声によって歌われた。二三吉はこの曲を最後にコロムビアに移籍した。 1975年と1976年に、丸の内の祭である「グランマルシェ」の催しの一つに取り入れられた。それ以後は長らく行われていなかったが、日比谷公園の開園100周年を迎えた2003年以後、毎年8月に「日比谷公園丸の内音頭大盆踊り大会」が開催されている。地区や年代によって様々だと言われているが、日比谷公園の踊り方がルーツという可能性が高い。
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