原初同盟の成立(1291年-1523年)
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「スイスの歴史」の記事における「原初同盟の成立(1291年-1523年)」の解説
詳細は「原初同盟(ドイツ語版、英語版)」を参照 伝説では、原初同盟(誓約同盟)の結成は「リュトリの野」で行われたとされている。神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の死後、ハプスブルク家のアルブレヒトの息子フリードリヒ(ドイツ王フリードリヒ3世)がバイエルン公ルートヴィヒ(ドイツ王ルートヴィヒ4世)と帝位をめぐって争ったが、アルブレヒトを敵視していた原初同盟はバイエルン公を支持した。これに怒ったフリードリヒはハプスブルク家の精鋭を揃えてスイス領内に侵攻したが、1315年のモルガルテンの戦い、1386年のゼンパッハの戦い(英語版)でスイス農民軍に打ち破られた。こうしてスイスからハプスブルク家の影響力が排除された。 このハプスブルク家との死闘のさなかの1353年に最初の3州に加えてグラールス州・ツーク州の両州とルツェルン・チューリッヒ・ベルンの各都市が原初同盟と個々に同盟を結ぶという形で同盟に加わった。こうしてできたのが「八州同盟(ドイツ語版、フランス語版、イタリア語版、アレマン語版)」である。アッペンツェル戦争(1401年 - 1429年)中の1411年に、アッペンツェル(ドイツ語版、英語版)(1403年 - 1597年)は原初同盟と防衛条約を締結した。 1440年代、トッゲンブルク伯領をめぐりチューリッヒがシュヴィーツら諸州と争い、分が悪くなってハプスブルク家に接近し同家の帝位を回復した(古チューリッヒ戦争(英語版))。このころハプスブルク家に近い司教領同盟(1367年成立)など幾多の勢力が、互いに結んで貴族間のフェーデに参加した。1470年代にブルゴーニュ戦争でスイス領内へ侵攻したブルゴーニュ公国のシャルル突進公の軍勢を破ったことと、スイス人傭兵がヨーロッパ全域の戦場で活躍するようになったことで、スイスの国際的な地位は向上した。 1488年にシュヴァーベン同盟が結成され、1499年に皇帝マクシミリアン1世がスイスを勢力下に収めようと侵入したが三同盟と原初同盟からなるスイス軍の前に敗れ(シュヴァーベン戦争)、この勝利によってスイスは神聖ローマ帝国からの事実上の独立を勝ち取り、シュヴァーベン地方ではドイツ農民戦争(1524年 - 1525年)へと向かうことになった。 1501年、バーゼル司教領(英語版)(1032年 - 1803年)が原初同盟に参加し、カントン・バーゼル(アレマン語版、英語版)(1501年 - 1833年)となる。1506年には教皇ユリウス2世が近衛兵として初めてスイス人傭兵を採用している。この頃、スイスはイタリア戦争などの周辺地域の紛争に干渉したが(ノヴァーラの戦い)、1515年のマリニャーノの戦い(英語版)でフランソワ1世率いるフランス軍に大敗を喫した。同年、ミュルーズが十都市同盟から盟約者団へ移ってきた。
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