十三と横溝正史とは? わかりやすく解説

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十三と横溝正史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:03 UTC 版)

海野十三」の記事における「十三と横溝正史」の解説

十三が『新青年編集者だった横溝正史知り合ったのは昭和2、3年頃のことで、当時電気試験所勤めだった十三本名の「佐野昌一名義短編探偵小説発表しており、これを気に入った横溝が、延原謙頼んで延原の家で紹介してもらってのことだった。さっそく原稿依頼して書き上げられたのが、『電気風呂怪死事件』だった。 この『電気風呂怪死事件』が校了となり、目次を書く段になって編集者仲間だった渡辺温から、「ええと、電気風呂作者は誰でしたっけ」と聞かれ横溝は、言下に「佐野昌一だよ」と答えてしまった。ところが十三自身はこの作品初めて「海野十三」という筆名用いていたのであるこのため初出版では本文では「海野十三」、目次では「佐野昌一」と、書籍内で作者の名前が2つになってしまった。 もともと十三勤め先内職にうるさい役所ということで、そのための筆名だったという事情があった。横溝いわく、「私のミステークのためにその苦心水の泡」というわけで佐野昌一けしからん」と役所ではかなり問題になったともいい、後には「相手海野十三のような温厚な君子だったからよかったようなものの、そうでなかったら私は、こっぴどく怨まれたことだろう」とこの失敗述懐している。もっとも佐野本人海野本人?)は、昭和10年代にはそのような状況楽しんでたようだと、「名士訪問記 ――佐野昌一訪問記――」からはうかがえる。なお、佐野名義での電子工学関係の執筆物もいくつかある。 十三昭和7、8年頃麻雀の会を持っており、この会には十三のほかに大下宇陀児延原謙水谷準乾信一郎横溝らがいた。横溝によると、十三が『新青年』で売り出したのは横溝の他雑誌への転出後だったので、戦前それほど深い交わりもなく、「十三温厚で誠実、思いやりの深い人柄知っていても、それほど深いつきあいとしては発展していなかった」という。それにもかかわらず1933年昭和8年)に横溝が大喀血した際にはわざわざ見舞い来てくれたという。恐縮した横溝そのとき十三喀血前歴があることを知ったという。 1946年昭和21年)、岡山片田舎疎開したきりだった横溝は、ひとづてに所を聞いたからと十三から突然手紙をもらい、ここから両者日文、夜文が始まった両者戦争のことには一切触れず互いに労わり合っていたという。1948年の春、横溝息子東京進学したにもかかわらず岡山疎開したまま帰る家なし途方に暮れていたが、東京学校入った息子十三ところへ挨拶行ったところ、「お父さんに家を買うようすすめなさい」と、タンス貯金何十万という札束積んでくれた。まだ土地安かった時代でもあり、この金のおかげで横溝成城に家を買うことができた。十三はその翌年に大喀血して急逝したが、多磨霊園彼の墓には石碑もなく、横溝は「私に用立てる金はあっても、自分石碑にまで手が回らなかったのだろう」と十三偲んでいる。横溝はこれを後々まで恩に感じ十三遺児とも親しくしている。

※この「十三と横溝正史」の解説は、「海野十三」の解説の一部です。
「十三と横溝正史」を含む「海野十三」の記事については、「海野十三」の概要を参照ください。

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