北フランスと南フランスの優勢 (1909-1914)
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「USFSAフランスサッカー選手権」の記事における「北フランスと南フランスの優勢 (1909-1914)」の解説
各シーズン結果シーズン優勝1909 スタッド・エルヴェティーク (1/3) 1910 USトゥルケノワーズ (1/1) 1911 スタッド・エルヴェティーク (2/3) 1912 スタッド・ラファエロワ (1/1) 1913 スタッド・エルヴェティーク (3/3) 1914 オランピーク・リロワ (1/1) ここまでUSFSAフランスサッカー選手権を制覇したのはパリ、ノール県、ノルマンディーのクラブだけだった。1910年代に入るとここに地中海岸のクラブが割って入る。マルセイユのスイス人コミュニティーが作ったクラブであるスタッド・エルヴェティークは1909年、1911年、1913年と3回優勝した。1909年の決勝では、エルヴェティークは準々決勝と準決勝を不戦勝で勝ち抜いてきたパリのCAPシャラントンと対戦。シャラントンは当時6人ものフランス代表選手を有し2度目の決勝進出を果たしたが、エルヴェティークが3-2で勝って南仏に初めてフランスサッカー王座を持ち帰った。だがスイス人クラブの優勝はレイシズム的論調を持つメディアには嫌われ、日刊新聞ル・プティ・パリジャンは「外国人クラブがフランス選手権で優勝するのはおかしい」、ラ・ヴィ・オ・グランデール誌はさらに辛辣で「おかしなジョークだ。フランス王者のイレブンがスイス人とは。スイス人はドイツ人の同義語だ」などと書き立てた。保守系の日刊新聞ル・マタンは「フランス生まれの人間が手に入れるべきタイトルを外国人に奪い取られるなど、ショッキングだ」と評したが、しかし同時にフランス人より優秀な外国人プレイヤーが来ることは、フランスのスポーツを発展させるのに有益だとも書いている。その2年後にマルセイユのスイス人クラブは、今度は決勝でラシン・クラブ・ド・フランスを3-2で破り2度目の優勝を決めた。この決勝戦はマルセイユ開催であり、つまり南仏で初めて開催された。この2度目の優勝の時にエルヴェティークは10人のスイス人と1人のフランス人で戦ったが、ラ・ヴィ・オ・グランデール誌は相変わらずの論調で「イタリアサッカー連盟を見習って、自国人選手が大部分を占めるチーム以外は出場禁止にすべき」と、エルヴェティークの選手構成を批判し続けた。また実質アウェイで決勝を戦ったラシンが、試合会場のゴールマウスのポストとクロスバーが規定に沿って組み立てられていない、と抗議したことはもうひとつ注目を集めた。1913年決勝はFCルーアン1899が地元ルーアンのスタジアムに6000人の観衆を集めてエルヴェティークを迎え撃ったが、2人しかいないフランス人選手の1人ムーランが延長戦でゴールを決めた。この3度目の優勝の時、やはりスイス人が過半数以上を占めるメンバー構成だったが、メディアからの批判は大したものではなかった。 「スイス系マルセイエーズ」らの黄金期を断ち切ったのは、同じ南仏のサン=ラファエルにホームタウンを持つスタッド・ラファエロワであった。ラファエロワは優勝歴のある強豪を2つ倒し、エルヴェティークも2試合連続で延長戦という激戦の末にUSトゥルケノワーズとASフランセーズを下して勝ち上がった。社会自由主義寄りの日刊新聞ルエステクレールは、ASフランセーズが7人のイギリス人と4人のフランス人と構成されていた事に対し「今大会のモラル大賞」と評した。 南仏のクラブが大きく台頭しても、やはりノール県の力は健在だった。1910年の決勝はパルク・デ・プランスで行われ、トゥールコワンのUSトゥルケノワーズが7ー2の大差でエルヴェティークを下して初優勝したが、熱狂した観衆が試合終了直前にピッチに乱入し、彼らを排除するまで試合が中断するというハプニングもあった。1914年、オランピーク・リロワが10人のフランス人と1人のベルギー人でもって決勝に臨み、セットのオランピーク・ドゥ・セットを3-0で破った。メディアはフランス人選手が大半を占める「フランセーズ」なチームの優勝を称え、ここ数年間は「過剰なスイス人、大量のイギリス人、少数のフランス人が勝ち続けてきた」と書き立てた。
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