北アフリカにおける初期の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/28 13:48 UTC 版)
「戦車駆逐大隊 (アメリカ軍)」の記事における「北アフリカにおける初期の戦闘」の解説
1942年から43年にかけての北アフリカ戦線において、軍は第1戦車駆逐集団(1st Tank Destroyer Group)の下で第601・第701・第767・第805・第813・第844・第899の7個戦車駆逐大隊を運用した。しかしながら戦車駆逐大隊は分割せずに大隊規模で運用するというドクトリンに反し、これらの部隊は決まって小隊規模に分割されて歩兵中隊の支援に用いられた。戦車駆逐大隊がそのままの規模で運用された例としてはエル・ゲタールの戦いにおいて第601戦車駆逐大隊が57両の戦車を含むドイツ軍第10装甲師団の強力な一団の攻撃を破砕した例がある。この戦いは開けた場所で戦車駆逐大隊が独立部隊として敵機甲部隊と交戦するという、本来のドクトリンに沿って行われた唯一の戦いという点で興味深い。 第601大隊が敵の攻撃を破砕した一方、同隊が戦力の2/3を失ったことで戦車駆逐大隊に対する批判も起こった。ジョージ・パットンは戦車駆逐大隊の基本理念に関して「戦場の地形にそぐわない」と述べた。マクネアは部隊の任務についてより踏み込んだ定義を行うことでこれに反論した。すなわち戦車駆逐大隊は敵部隊の捜索及び迎撃にあたって有利な位置を取るために高度な運動性を有する部隊であり、戦車駆逐車両は「有利な位置を取り、完全に隠れた状態で敵戦車を不意打ちするための機動力のみ必要である」。したがって攻勢正面での使用や戦車のような攻撃の支援には不向きであると述べた。。 北アフリカ戦を通じてドクトリンには3つの大きな変化が現れた。まず第一に、戦車駆逐大隊の過度な編成計画が見直されたことである。計画では222個を予定していた戦車駆逐大隊の編成数は106個に減少した。理由の1つとして完全な自動車化歩兵師団の数が予想を下回ったこともあるが、ドイツ軍の装甲部隊の数が予想ほど多くはなかったことも原因である。編成計画数は1943年10月に78個まで減少した。 第二に、M3 GMC及びM10 GMCの欠点が認識されたことである。これらの車両は速度が不十分であり、また車高が高過ぎるために敵の砲火を直接浴びることとなった。北アフリカにおいて第2軍の指揮官であったオマール・ブラッドレー将軍は牽引砲を再び導入することを提案した。牽引砲の導入は攻撃精神の減退を招く恐れがあったものの、牽引砲は迅速に壕へ搬入することが可能であり、また視認性が低い点については皆が認めるところであった。だがブラッドレーは自らの提案によって牽引砲大隊が創設されることは望んでおらず、彼の真の狙いは対戦車戦力を歩兵の指揮下に収めることであった。イギリス陸軍が壕にダッグインさせた対戦車砲によって戦果を挙げているという事実も彼の主張を後押しした。こうして夏にはM5 3インチ砲を装備する実験的な大隊が編成され、マクネアの後押しもあって11月には全大隊のうち半数を牽引砲大隊に改編するという命令が出された。これはブラッドレーの提案からは大きく逸れたものであった。 第三に、戦車駆逐大隊の運用方針が変化したことである。公式のドクトリンでは未だに完全な大隊規模で運用するよう求めていたにもかかわらず、戦車駆逐戦術射撃センターでは他部隊との協同や小規模の部隊行動などに焦点を当てるようになった。新たな野戦教範では戦車駆逐「小隊」の独立行動について議論する余地を設けており、また兵士は間接射撃や対構造物射撃といった副次任務につくための訓練を開始した。
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