北アフリカの軍事指導者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 00:43 UTC 版)
「アンリ・ジロー」の記事における「北アフリカの軍事指導者」の解説
しかし連合軍の北アフリカ上陸作戦(トーチ作戦)目前の11月5日、ダルラン元帥が息子の看病のためアルジェで長期滞在を開始した。そこで連合軍はダルランとの接触を開始した。流血を恐れたダルランはペタンに連絡した上でこれに応じ、フランス軍の説得を試みることになった。ジローはこの計画について11月6日に知り、11月9日になってアルジェリアのアルジェに私服で上陸した。これは上級大将の軍服は別便で送っていたが、行方不明になったことが理由であり、このこともあってジローは大きな役割を果たすことが出来なかった。北アフリカのフランス軍降伏はダルラン元帥の説得によって順調に進み、11月11日までに次々と降伏していた。一方でヒトラーは「なぜジローを逃がしたのか。あの将軍は30個師団に相当する!」と叫び、駐フランスドイツ大使オットー・アベッツ(de:Otto Abetz)が解任される原因の一つとなった。11月13日、ダルラン元帥はアメリカとイギリスの承認を受けて北アフリカにおけるフランス国家元首兼軍司令官に就任した。一方で軍事指揮権はジローに与えられた。ダルランの政府には旧ヴィシー政府高官が多数おり、ジローの政府もそれを引き継ぐこととなった。 しかしダルランは12月24日、フランス人学生に暗殺された。連合軍の指示の元、ジローは「北アフリカの軍民最高司令官」(fr)として北アフリカにおけるフランス軍の最高司令官となった。翌日、ド・ゴールからは自由フランスのフランス国民委員会と北アフリカ植民地を統合のための協議を行う申し合わせがあったが、ジローは時期尚早であると断った。ダルラン暗殺犯の捜査に当たってジローはド・ゴール派の関係者を何人か逮捕した。これは本人によるとド・ゴール派とパリ伯アンリの仕業であるとアメリカが考えていたとあり、自らの無関係を示すためであったという。実際ド・ゴールはダルランを「フランス勢力結集の障害」であると考えていた。 1943年1月22日、カサブランカの近郊アンファで英米首脳とともにジローとド・ゴールが会談を行った(カサブランカ会談)。この席で自由フランスと北アフリカを統合し、ジローとド・ゴールの二頭体制を行うよう米英から要請があったが、ド・ゴールの拒否によって統合は失敗した。フランクリン・ルーズベルト米大統領は「ジローは愛国的な軍人で、まったく政治家ではない。ド・ゴールは軍人でたしかに愛国的で国に献身している。しかし彼は政治家で狂信家だ。彼の中にはほとんど独裁者の性質がある」と両者を評した。しかしカサブランカから帰着後、ジローはダルラン暗殺犯として収監されていたド・ゴール派の容疑者達をすべて不起訴にするよう命令し、解放した。またパリ伯もアルジェリアから追放された。
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