剣闘士養成所からの脱走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 07:11 UTC 版)
「第三次奴隷戦争」の記事における「剣闘士養成所からの脱走」の解説
詳細は「剣闘士」および「スパルタクス」を参照 紀元前1世紀の共和政ローマでは剣闘士試合は最も人気のある娯楽のひとつであった。試合に出場する剣闘士を供給するためにイタリア各地に剣闘士養成所がつくられた。これらの養成所では戦争捕虜や奴隷市場で売買された者そして志願した自由民が剣闘士として闘技場で戦うための技術を教え込まれていた。強い剣闘士は富と名声を得られ、興行師(ラニスタ)も大金を稼げたが、一方で当時のローマ社会では剣闘士は奴隷の中でも最下等の者とされ、興行師は売春宿の主人と同じ賤業と見なされていた。剣闘士は試合に敗れても助命されるケースが多く必ずしも殺されるわけではなかったが、幾度もの試合を生き延びて自由を得られる者は少数であり、過酷な境遇であることに変わりはなかった。 反乱の指導者となったスパルタクス(Spartacus)はトラキア人の剣闘士奴隷で、カンパニア地方のカプアにあるレントゥルス・バティアトゥス(英語版)所有の剣闘士養成所に属していた。スパルタクスの出自についてプルタルコスはトラキアのマイドイ族出身とし、アッピアノスは、元はローマ軍団の補助兵であったが、捕虜となって売られ剣闘士になったトラキア人であると伝えている。フロルスはより詳細に「トラキアのメディ族出身、ミトリダテス戦争にてポントス王国側の傭兵として参戦。メディ族がローマと講和して後はローマの補助兵となったものの、反ローマ闘争に身を投じた。やがてローマ軍の捕虜となり、奴隷として売られてカプアの剣闘士養成所に入った」と述べている。近代の歴史家モムゼンはボスポラス王国のトラキア系王家の子孫とする説を唱えている。スパルタクスの出身については史料の述べるトラキア(Thraex)とは民族ではなく彼が訓練された剣闘士のスタイル(トラキア剣闘士というタイプがある)のことではないかとする異論もある。 紀元前1世紀頃の南イタリアのカンパニア地方は剣闘士興行が盛んな土地であり、最古の剣闘士養成所はカプアにあったと考えられる。このカプアのバティアトゥス養成所にはガリア人とトラキア人の剣闘士が多く所属していたが、興行師は無理に彼らをひとつ所に押し込めていた。紀元前73年、剣闘士奴隷200人が脱走を計画した。密告によって計画が漏れると、およそ70人の奴隷が厨房の調理道具(包丁や焼き串)を武器に養成所を脱走し、さらに通りがかった数台の馬車から剣闘士用の武器と鎧も手に入れた。逃亡して自由になった剣闘士たちはスパルタクスと二人のガリア人、クリクススとオエノマウス(英語版)を指導者に選んだ。 逃亡した奴隷たちはカプアから派遣された討伐隊を撃退し、不名誉と考える剣闘士の武器を捨てて手に入れた軍隊の武器を装備した。養成所脱走直後の動向については史料によって異同があるが、逃亡した剣闘士の集団がカプア周辺を略奪し、そこの奴隷たちを仲間に加え、ウェスウィウス山に立て籠もったという点ではおおよそ一致している。
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