前方部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/23 06:15 UTC 版)
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前方部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 21:53 UTC 版)
墳丘上に2基が推定される。うち1基は1908年(明治41年)の耕作に伴い発掘され、木片(木棺材か)のほか鏡・玉・石製品が出土したという。鏡は少なくとも11面(うち絵模様神獣鏡2面・三角縁神獣鏡1面・獣首鏡1面)、玉類は滑石製勾玉・管玉・棗玉・玻璃玉など4種170余個、石製品は石製刀子1個。鏡の一部には鉄錆が見られたことから、鉄器類の存在可能性も指摘される。
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前方部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 21:42 UTC 版)
前方部の墳丘は破壊されており、その跡に造山集落の荒(こう)神社が建てられている。同神社の鐘突堂の脇に置かれている手水鉢は、阿蘇凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式の長持型石棺の身部分であり、風雨に晒されている。また、神社の右横側後ろに石棺の蓋の破片が放置されている。この石棺はある時期に盗掘、乱掘されたものだと推測され、新庄車塚古墳より運ばれたものであるという伝承がある。この前方部の頂に祭祀に使用された台形壇があったと想定され、後円部への埋葬が終わってから作られたものであると考えられる。その大きさは、台形の短辺(下底)が約70メートル、長辺(上底)は約40メートル、両辺の間(高さ)約50メートルという大規模なものである。後円部へ向かうと広場と呼ぶに相応しい平坦部がある。墳丘上には3列に巡らされている円筒埴輪列が存在しているが、現在では地表に表れた埴輪片はほとんど拾いつくされ、見つけることが困難になっている。 後円部から前方部を望む 石棺棺身 石棺蓋石
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前方部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 16:47 UTC 版)
最古の前方後円墳は3世紀代の箸墓古墳のように前方部の前面幅が撥(バチ)形になっており、前方部の前面幅が後円部の直径に匹敵するほど開いている。京都府木津川市椿井大塚山古墳などが挙げられる。高さも後円部の方が高くなっている。次の段階では、前方部が前面に向かってまっすぐ伸び、幅狭く低い。例として、桜井市茶臼山古墳などがある。 その後、時代が下るにつれて後円部の直径と前方部の幅がほぼ同じとなり(古墳時代中期)、さらに時代が下ると前方部は巨大化の一途をたどり、前方部の幅が後円部の直径の1.5倍、中には2倍に達するものもあり、高さも前方部のほうが高いものが多い(古墳時代後期)。また、古墳時代後期の一部の前方後円墳には、「剣菱形」と呼ばれる、前方部の中央がへの字のようにやや角ばって外側に突き出すような形状をしているものがある(なお剣菱形が確認されているのは河内大塚山古墳、見瀬丸山古墳、鳥屋ミサンザイ古墳、瓦塚古墳と極めて数が少ない)。
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