初期 - タイモン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/27 20:04 UTC 版)
「タイモン・ドッグ」の記事における「初期 - タイモン」の解説
ステファン・マーレイの音楽遍歴は、14歳の時にハーモニカとギターでボブ・ディランやドノヴァンのカヴァーをリヴァプールのペパーミント・ラウンジや、有名なキャヴァーン・クラブで演奏していたことから始まる。学校では物静かだった彼は、ミュージシャンと学生の区別をつけるため、“タイモン”という偽名を使うことを覚えた。 スペンサー・リー(現在はBBCマージーサイドのDJ)は1965年にタイモンと出会い、この若きミュージシャンに曲作りを勧めた。彼は地元でのプロモーターになり、ライヴ出演の手配、レコード会社へのデモテープ発送などを手伝った。 1968年のある日、サウスポートの印刷所で働いていたタイモンはリーからの電話を受けた。リーはタイモンにロンドンのパイ・レコードを訪れるために休みが取れるか聞いた。バンドリーダーでパイの経営陣の一人、キリル・ステープルトンがタイモンとの契約に興味を示しているというのだ。パイは彼がヒットシングルを出すことを確信し、1年分の賃金に相当する前金を与えた。しかし、この商業的プレッシャーは若き音楽家には圧倒的にのしかかった。 タイモンはすぐにリヴァプールを離れ、ロンドンでアレンジャー兼プロデューサーのジェリー・マーティンと曲作りを始めた。マーティンはカナダのポップ・シンガーで、イングランドでプロデューサーになることを目論んでいた。タイモンの最初のシングル「ザ・ビター・ソウツ・オブ・リトル・ジェーン」は1968年1月にリリースされた。この曲にはレッド・ツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズがベースで、ジミー・ペイジがリード・ギターで参加していた。マーティンはレコードの発売直前にクビになり、レコードはパイによりささやかに宣伝された。 ピーター・アッシャー(元ピーター&ゴードン)がタイモンに興味を持ったのはこの頃である。アッシャーはアップル・レコード・レーベル最初のタレントを探す役割を負っており、アメリカのシンガーソングライター、ジェームス・テイラーと契約をすませ、新たな興味深い才能を探していたのである。ポール・マッカートニーはタイモンの「ザ・ビター・ソウツ・オブ・リトル・ジェーン」を聴き、この曲の新ヴァージョンを制作することを望んだ。マッカートニーは彼のやり方に従えばもっといい曲になることを確信していたが、タイモンはこれを断った。双方の音楽性に対する意見の相違のため、レコーディングは棚上げになった。タイモンはしばらくヨーロッパへバスキング (en:Busking) の旅に出た。 イングランドに帰国すると、BBCのDJデイヴ・シモンズが彼にムーディー・ブルースを紹介した。彼等はタイモンの曲を聴き、自身の新レーベル“スレッショルド・レコード”に彼を欲しがっていた。最初の契約は1969年10月に、タイモンとブリティッシュ・ロック・バンド、トラピーズとの両方とに行われた。2か月後の12月、タイモンとトラピーズはムーディ・ブルースのツアーのサポートを行った。タイモンとムーディ・ブルースはシングル「アンド・ナウ・シー・セズ・シーズ・ヤング」をリリースした。
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