分断されたベルリン
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「ベルリンの歴史」の記事における「分断されたベルリン」の解説
1945年2月11日、ヤルタ会談において連合国はドイツをイギリス、フランス、アメリカ、ソヴィエト連邦の4か国で占領し、ベルリンも4つに分割することが決められた。またソヴィエト赤軍はベルリンの戦い以降駐留し続けた地域のうち、1945年夏に西側3か国の占領地域から撤退した。ソヴィエトの軍司令官は5月の内に、戦後初のベルリン市長にアルトゥール・ヴェルナー(ドイツ語版)を任命し、ベルリン市参事会(ドイツ語版)、また共産党員が支援する市行政組織を設立した。ベルリンは連合国が4地区に分割して統治することになったが、4地区を通じて同一の司令官が管轄するものとされた。しかしこのとき、すでに西側諸国とソヴィエト連邦との間で激しい政治対立が起こっていた。米英占領地区 (Bizone) や米英仏占領地区 (Trizone) の形成、またのちのドイツ連邦共和国(西ドイツ)の成立や、ソヴィエト占領地区で流通していたライヒスマルクを西側占領地域において貨幣価値を消滅させるという突然の一方的な通貨改革(ドイツ語版)の実施について、ソヴィエトはこれらを4か国協定が破棄されたものと解釈した。一方でこの対立はソヴィエト占領地区がマーシャル・プランへの参加を拒絶した当然の結果でもある。マーシャル・プランは、ソヴィエト連邦にとってはその経済圏が引き離されることを意味し、受け入れるわけにはいかなかった。東側地域のドイツ各州はソヴィエト連邦に対して戦争賠償を支払い続ける必要があったのに対し(デモンタージュ)、西ドイツおよび西ベルリンはマーシャル・プランのもとで経済が強化され、また自由化が進められた。 1946年10月20日、4か国占領地区合同での大ベルリン市議会(ドイツ語版)選挙が行われ、SPD がキリスト教民主同盟 (CDU) 、社会主義統一党 (SED) に対して勝利する。政府や議会では非難の応酬が激しさを増し、西側占領地域に関する議論で騒然となる場面が引き起こされ、ついにはSED議員の出席が拒否される事態に至った。 1948年12月5日、大ベルリン市議会の改選が行われたが、ソヴィエトが自占領地区での選挙を禁止したため、実際には西ベルリンでのみ投票が行われた。社会主義統一党はこれに先立つ11月30日に東ベルリンの100名の自称議員で「市議会」を開催させた。そして参事会を合法的に解任したと声明し、フリードリヒ・エーベルト(同名の元ヴァイマル共和政大統領の子)を市長に選出した。
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