分断されたベルリンとは? わかりやすく解説

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分断されたベルリン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:17 UTC 版)

ベルリンの歴史」の記事における「分断されたベルリン」の解説

1945年2月11日ヤルタ会談において連合国ドイツイギリスフランスアメリカソヴィエト連邦の4か国で占領しベルリン4つ分割することが決められた。またソヴィエト赤軍ベルリンの戦い以降駐留し続けた地域のうち、1945年夏に西側3か国の占領地域から撤退したソヴィエト軍司令官5月の内に、戦後初のベルリン市長にアルトゥール・ヴェルナー(ドイツ語版)を任命しベルリン市参事会ドイツ語版)、また共産党員支援する市行政組織設立したベルリン連合国が4地区分割して統治することになったが、4地区通じて同一司令官管轄するものとされた。しかしこのとき、すでに西側諸国ソヴィエト連邦との間で激し政治対立起こっていた。米英占領地区 (Bizone) や米英占領地区 (Trizone) の形成、またのちのドイツ連邦共和国西ドイツ)の成立や、ソヴィエト占領地区で流通していたライヒスマルク西側占領地域において貨幣価値消滅させるという突然の一方的な通貨改革ドイツ語版)の実施について、ソヴィエトはこれらを4か国協定破棄されたものと解釈した一方でこの対立ソヴィエト占領地区がマーシャル・プランへの参加拒絶した当然の結果でもある。マーシャル・プランは、ソヴィエト連邦にとってはその経済圏引き離されることを意味し受け入れるわけにはいかなかった。東側地域ドイツ各州ソヴィエト連邦に対して戦争賠償支払い続ける必要があったのに対しデモンタージュ)、西ドイツおよび西ベルリンマーシャル・プランのもとで経済強化され、また自由化進められた。 1946年10月20日、4か国占領地合同での大ベルリン市議会ドイツ語版選挙が行われ、SPDキリスト教民主同盟 (CDU) 、社会主義統一党 (SED) に対して勝利する政府議会では非難応酬激しさ増し西側占領地に関する議論騒然となる場面引き起こされついにはSED議員出席拒否される事態至った1948年12月5日大ベルリン市議会改選が行われたが、ソヴィエトが自占領地区での選挙禁止したため、実際に西ベルリンでのみ投票が行われた。社会主義統一党はこれに先立つ11月30日東ベルリン100名の自称議員で「市議会」を開催させた。そして参事会合法的に解任したと声明し、フリードリヒ・エーベルト同名の元ヴァイマル共和政大統領の子)を市長選出した

※この「分断されたベルリン」の解説は、「ベルリンの歴史」の解説の一部です。
「分断されたベルリン」を含む「ベルリンの歴史」の記事については、「ベルリンの歴史」の概要を参照ください。

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