分断・廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 17:40 UTC 版)
放生津潟を開削した富山新港の建設により射水線は分断されることになった。1966年(昭和41年)4月に放生津潟の入り口部分を渡る鉄橋を含めた堀岡駅 - 越ノ潟駅間のうち新港東口駅建設予定地以西が廃止となり(それ以外は休止扱い)、高岡側の越ノ潟駅 - 新湊駅間が加越能鉄道に譲渡されて新湊港線となった。分断された堀岡駅 - 越ノ潟駅間には、代行の連絡バスの運行を経て渡船連絡のために廃止区間上に新港東口駅を設置、堀岡駅 - 新港東口駅を進延して富山県営渡船との連絡を図ったが、乗り換えの不便のため射水線の乗客は6000人/km日から3000人/km日に半減した。 1971年(昭和46年)7月に廃止の話が持ち上がる。その後、昭和52年度(1977年 - 1978年)から、経営改善5カ年計画の実施を前提に、地方鉄道軌道整備法に基づく欠損補助を受けることになる。この計画では乗客数の増加や赤字の改善を図り、昭和56年度(1981年 - 1982年)に黒字転換することを目標としたが、昭和54年度(1979年 - 1980年)の時点で進捗を見直し、目標に達しない場合は休廃止もやむなしとするものであった。この計画に基づき、乗客増加策の一環として、1977年8月31日から富山駅前駅への乗り入れを1日6往復で、17年ぶりに再開した。 しかし、改善目標の達成が困難なことから、1980年(昭和55年)4月1日に廃止された。なお、営業最終日の3月31日には廃線を惜しむ沿線住民などのために午後から運賃を無料にする措置がとられた。
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