分店・出張店による多店舗展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:02 UTC 版)
「白木屋 (デパート)」の記事における「分店・出張店による多店舗展開」の解説
白木屋は先述の通り、1920年(大正9年)11月1日に阪神急行電鉄梅田駅ビルや東京・丸の内の海上ビル(現・東京海上火災ビル)にも丸の内出張所を開設するなど早くから小型店舗の展開を進めていた。 1923年(大正12年)3月には東京・丸の内の丸の内ビルヂング(現・丸の内ビルディング)の竣工に伴って同ビル内に丸の内出張所を開設したほか、同年5月15日に神戸実業銀行に出張所を出店するなど関東大震災前から積極的な多店化が進められていた。 また、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災の直後も、同月15日に東京・丸の内の丸ビル出張店の営業を再開するとともに同月20日から一階正面左角の三菱商事跡の一角を借り受けて新営業所を開設したほか、九段下牛が淵公園前や四谷塩町停留所前に出張店を開設して日用雑貨などの販売を行って好調な売り上げを上げた。 1926年(大正15年)に丸ノ内と四谷出張店を閉店したほか、阪神電気鉄道梅田駅に出店した出張店なども短期間で閉鎖されるなど、店舗の閉鎖も少なくなかった。 日本橋本店の再建が遅れることになったため、業績を維持するには仮建築での営業だけでは不可能な状況となっていた。 そして、2年連続で赤字に陥ったこともあり、1928年(昭和3年)2月の日本橋本店の本建築による再建第1期工事の落成に前後して分店と呼ぶ小型の店舗をチェーン展開し始めることになった。 1927年(昭和2年)3月に神戸出張店を閉鎖した際に約16万円という当時としては巨額な損失を出していたため、不動産を取得して出店することなどの危険性も痛感させられていた。 そのため、まず実験的に池上電気鉄道のターミナル駅ビルを賃借して約3万円を投じ五反田分店を出店して、分店を出店することの成否を1か月間で判断することになった。 この五反田分店が順調に立ち上がったことから分店の多店舗展開が進められることになった。 1929年(昭和4年)2月に大森分店を出店、同年3月に日本橋通2丁目に売店を開設したほか、1930年(昭和5年)に東京では錦糸堀や神楽坂、関西では京都に分店を出店している。 この他にも、東京では麻布十番や大塚(日本橋本店の仮営業所の取り壊し資材を流用して移築)、錦糸堀(本所区(現・墨田区)江東橋)、大久保、大井、帝大などに分店を出店したほか小田急電鉄新宿駅の構内に小田急売店を開設している。 東京の分店・出張店・売店は比較的順調に売り上げを伸ばしたとされているものの、日本橋通2丁目の売店は開設からわずか半年の9月に閉店となったほか、大久保分店も業績不振で短期間に閉鎖になるなど、必ずしも全店が順調に売り上げを伸ばしたわけではなかった。 また、関西では天神橋筋六丁目の天六分店や梅田の阪神出張店、天満橋の京阪出張店などのターミナル駅やその駅前に出店したほか、福島や玉造、京阪の香里園等にも分店・主張店を出店していたが、大阪支店閉店前後までで全店閉鎖して関西からは全面的に撤退する形となった。
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