分割提案以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 21:38 UTC 版)
詳細は「イギリス委任統治領パレスチナ」を参照 国際連盟は第1次世界大戦後にオスマン帝国分割の一環としてイギリスのパレスチナ委任統治を認めた。1918年に実施したイギリスの人口調査ではアラブ人は700,000人、ユダヤ人56,000人と推計している。 1917年のバルフォア宣言でイギリスの外務大臣は「パレスチナでのユダヤ人居住地(ナショナル・ホーム)建設に好意を寄せており…(中略)…パレスチナの非ユダヤ系住民の市民権および宗教的権利を害することがあってはならない…(後略)」と政府の見解を示している。この時点では居住地獲得の手段として分割も国家の樹立も言及されてはいなかった。バルフォアの後任外相カーゾン侯爵は、1500年の大半の時期パレスチナを占有してきたアラブ系住民はどうなるか、そしてユダヤ人移民のために土地を取り上げることも、後から来たもののために土地を切り開いてきただけになることも彼らには納得がいかないだろうと懸念しメモに残している。 1936年にパレスチナのアラブ反乱が勃発してユダヤ人とアラブ人の抗争が激化すると、1937年、ピール委員会(英語版)はパレスチナをアラブ国家と小さなユダヤ国家(15%程度)、国際地域に分割する提案を行った。アラブ側の指導者はこの提案を拒絶。ユダヤの指導者ハイム・ヴァイツマンとベン=グリオンは今後の交渉の土台として、条件付きでこの提案を承認するようシオニスト会議を納得させた。この提案には、ローザンヌ条約のギリシャとトルコ間での住民交換をモデルに、アラブ住民をユダヤ人国家の国境外へ移転することに関する条文が含まれていた。やはりこれに関してもアラブ側からは拒否された。 イギリスのウッドヘッド委員会はいくつかの分割案を考案した。しかしこの提案を実現するのは困難であった。1938年のイギリス政府の政策要綱では「パレスチナにアラブ人とユダヤ人の独立国家を創出する提案に関する政治的、行政的、財政的困難は非常に大きく、問題の解決は不可能である」と述べた。アラブ人とユダヤ人の代表をロンドン会議に招いたが問題解決には至らなかった。 1939年5月のマクドナルド白書(英語版)(39年白書)では、イギリス政府はパレスチナをユダヤ人国家にすべきという方針はとっていないこと、またパレスチナへのユダヤ人移民を制限する考えを示した。これに対しユダヤ側は拒否反応を見せた。イギリス政府に移民制限を無くすよう要請し、またアリヤー・ベートと呼ばれる違法移民が発生した。強硬派はレヒを組織した。彼らはイギリスに抵抗するユダヤ人テロ組織であり、一時はナチスと協力することも考えた。しかしレヒはメンバーが100名以下であり調査の結果ナチスは興味を失っていった。結局この時代には全てが未解決のままであった。
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