出板経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 17:57 UTC 版)
南谿が旅の記録を基に編述した両遊記は、板行以前から伴蒿蹊や神沢杜口、松本愚山(慎)といった知人友人が借覧したり書写したりしていたが、上梓を希望する書肆が現れたためにその請いを容れ、草稿本を改編して寛政7年(1795年)3月に『西遊記』(正編)5巻5冊を、同年8月に『東遊記』(正編)5巻5冊を挿絵を加えて上梓し、この両書が好評を博したために翌々9年正月に『東遊記後編』5巻5冊を、更にその翌年6月に『西遊記続編』5巻5冊を板行した。改編に際しては、章の前後を置き替えるといった配列変更のほかに、『東遊記』では正・後編を合わせて27章が、『西遊記』では正・続編合わせて17章が削られ(附録参照)、また本文にも手が加えられている。削除修正箇所は総じて外交や各藩の内政に関係している記述が多く、寛政から文化年間にかけての20余年間(およそ1790年から1810年代)は北方ロシアの動向を含めて政治的社会的事件に関する言論や報道の統制が非常に厳しく、現実社会の出来事を「実録物」と称して出板する黄表紙の著者や書肆が処罰されたり、事前検閲による出板差し止め等が行われた時代であったので、そのために幕府の忌憚に触れないよう気遣った様子がうかがえる。一方で、新しく付加された章が『東遊記』では正・後編を合わせて11章、『西遊記』では正・続編合わせて19章あり、寛政10年刊『西遊記続編』に南紀に関する章があるのはその前年の南紀巡遊における見聞を基にしたと考えられるが、それ以外は塘雨の『笈埃随筆』といった他書を参考にして加えられたものと思われる。 また、板行前の稿本及びそれの写本も現伝し、それらを見るともとは両遊記共に10巻編成であったようで、『東遊記』の場合、末の2巻を欠くものの2巻宛を1冊にまとめた8巻4冊の自筆稿本も残されている。また、国会図書館架蔵の「寛政七年卯八月」の刊記を持つ『東遊記後編』(但し寛政7年以降の後摺り本と思われる)には巻末に「同(東遊記)<いろいろ珍敷(めづらしき)事新集>三編近彫」(<>内は割書)という広告が載るが、結局その『東遊記三編』は出板されず、南谿による上記『東西遊記』への統合も果たされずに終わった。
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