共犯が死刑に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 13:57 UTC 版)
「古谷惣吉連続殺人事件」の記事における「共犯が死刑に」の解説
2人とも事件後に逃亡したが、同年7月27日、坂本(当時20歳)は福岡市の事件の被疑者として、福岡市警察に逮捕された。その後、坂本は同月30日になって、八幡市の事件について自供した。坂本は、1941年に古谷を取り調べた鹿子生寛治による取り調べに対し、素直に罪を認めた一方、「ソウさん」なる共犯者の存在を主張したため、鹿子生は坂本に古谷の写真を見せ、「ソウさん=古谷」と確認を取った上で、古谷を全国指名手配したが、坂本の死刑執行より先に古谷の所在を掴むことはできなかった。 坂本は裁判で、「福岡市の事件の際、犯行現場で分け前を巡って口論になったが、自分は古谷に対し『途中で一度逃げた癖になんだ』と怒った」という旨の供述をしたが、後に逮捕された古谷も同じ趣旨の供述をしたため、当時の捜査主任だった福岡市警の部長刑事・梅田只雄(1965年12月時点で博多警察署警部補)は、「福岡市の事件に関しては坂本が主犯で間違いない」と述べている。一方、八幡市の事件については、「被害者を押し倒して首を絞めたのは古谷だ」と主張したが、福岡地方裁判所は1951年11月7日、被告人である坂本と、古谷(当時逃亡中)の共謀を認定した上で、坂本を主犯と認定し、求刑通り死刑判決を言い渡した。坂本は控訴したが、1952年(昭和27年)4月9日に福岡高等裁判所で控訴棄却の判決を受け、死刑が確定した(戦後17番目の少年死刑囚)。 死刑確定後、坂本は自身への面会や差し入れをしていた満州時代の小学校の同級生から影響を受け、キリスト教に深く帰依するようになった。その一方で、坂本は再審請求を検討し、免田事件で死刑が確定していた免田栄(後に冤罪が判明し、再審で無罪が確定)に対し、再審請求の相談を持ち掛けたが、請求のための資金・支援者などを欠いていたため、処刑直前に請求を断念した。 そして1953年(昭和28年)、坂本登は収監先の福岡刑務所に隣接していた藤崎拘置区で、死刑を執行された。当時、死刑囚は原則として一定期間(死刑確定から6か月)以内に死刑を執行することになっており、共犯者がいた場合でも、死刑執行を猶予されることはなかった。
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