八・一宣言の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/13 17:32 UTC 版)
詳細は「満州事変」、「国共内戦」、および「長征」を参照 この時期の中国の情勢は、以下の通りである。 満州事変の後、日本軍は万里の長城を越え、熱河省に侵攻を開始した。一方、蒋介石は1932年6月14日に先に中国国内を団結させ、その後に、外敵にあたるという「攘外必先安内」(zh)政策を国策としたこともあり、日中両国は1933年5月塘沽協定を締結した。その結果、日本は万里の長城以南から撤退する一方、蒋介石は国共内戦に注力することとなった。その後、日本は華北五省(河北省、山東省、山西省、察哈爾省、綏遠省)の分離を画策し、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定を相次いで締結させ、中国国民党の勢力を河北省、察哈爾省から退けていった。 一方、日本と妥協した蒋介石は中国共産党の弾圧に着手していった。第五次囲剿において、中国共産党は瑞金を放棄し、長征を行い、1935年には陝西省北部の延安に到達した。しかし、長征及び満州から逃亡してきた張学良率いる東北軍と馮玉祥率いる西北軍(zh)の攻撃で中国共産党は疲弊しており、国共内戦の停戦を希望していた。 また、この頃世界では、1935年7月、コミンテルン第7回大会では反ファシズム統一戦線を設立するという政策を決定した。その中でゲオルギ・ディミトロフは、「支那に於てはソヴヱート運動拡大及び赤軍戦闘能力鞏化を全国的人民反帝運動の展開と結合せねばならぬ。この運動は帝国主義的圧制者に対する何よりも先づ日本帝国主義及びその支那従僕にたいする武装人民の人民革命闘争のスローガンの下に遂行されねばならぬ。支那ソヴヱートは、支那人民の解放闘争に於て、全支那人民を統一する中心点たらねばならぬ。」と述べた。その流れを受け、モスクワにいた王明等、駐コミンテルン中国共産党代表団が、フランスのパリで『救国報』(中国語)とモスクワで『共産国際通訊』(英語)に八・一宣言を発表した。
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