八・一宣言の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/13 17:32 UTC 版)
八・一宣言の内容は、蒋介石の「攘外必先安内」政策を批判し、全国の同胞、各政党、軍隊はそれぞれの間での闘争を放棄し、共同して日本に抵抗することを呼びかけた。そして、八・一宣言と合わせて提出した抗日救国十大綱領の中で、国防政府の成立を要求し、合わせて中国共産党の軍隊が国防政府の指導の下、共同して抗日闘争にあたることを宣言するというものであった。 その後、八・一宣言の内容は上海や北京といった中国の大都市に広まり、国内の世論は内戦の停止と共同して日本へ対抗する方向に傾いていった。 八・一宣言後、日本は同年11月25日、殷汝耕を首班とする傀儡政権である冀東防共自治政府を通州(今の北京市)に樹立し、華北分離工作を推進していった。その直後の12月9日には、北平(今の北京市)の学生が反発し、日本の華北分離工作の反対、内戦の停止、言論の自由等を要求するデモを起こし(一二・九運動)、この学生運動は中国全土に波及した。 その流れを受け、1936年の西安事変、第二次国共合作へと進展していった。
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