全国高校野球選手権大会優勝(1977年)までの道のり
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「松本正志」の記事における「全国高校野球選手権大会優勝(1977年)までの道のり」の解説
東洋大姫路高校在学中の監督だった梅谷馨は、入学直後に制球が不安定ながらも大変なスピードボールを投げる松本の姿を見た瞬間、「この子(松本)が順調に育てば(夏の選手権大会で)全国制覇を達成できるかも知れない」と思ったという。 松本の2年時(1976年)以降は、「全国制覇確実」と言われるほどチームの戦力が充実していていて、対外試合では敗戦どころか接戦に持ち込まれることもほとんどなかった。そこで梅谷は、「接戦も経験させる必要がある」との考えから、知人に練習試合の審判を任せた。松本が投げる球を全て「ボール」に、相手投手の投球を全て「ストライク」と判定するように依頼したこともあったとされる。 ところが松本は、2年時秋の兵庫県大会で先発を任されながら、13個もの四死球を記録。チームは敗戦を喫したばかりか、2年連続の選抜大会出場の可能性を失ってしまった。試合後には敗戦のショックから「野球をやめたい」とまで口走ったが、居合わせたチームメイトから「それならみんな(野球を)やめる。俺らは『お前(松本)がいるから全国制覇(を達成)できる』と思って頑張っているんや」と言われたことで奮起。3年時(1977年)には、夏の選手権兵庫大会でチームを優勝へ導いたことによって、春(選抜大会)に逃した甲子園球場への再登場に漕ぎ着けた。 3年時夏の選手権本大会では、初戦(2回戦)で千葉商業高校打線を相手に完封勝利を達成。浜田高校との3回戦では、先発で6回終了まで無失点で凌ぐと、7回から宮本にマウンドを譲ってバッテリー以外のポジションに回った。チームの大量リードを踏まえた交代であったが、宮本が最初に対戦した打者のライナーを右手に受けて5球で降板を余儀なくされたため再び登板。浜田打線に1点も許さないまま、試合終了まで投げ切った(事実上の2試合連続完封勝利)。豊見城高校との準々決勝では3失点を喫したものの、今治西高校との準決勝では、打球が左膝を直撃するアクシデントに見舞われながら3度目の完封勝利をマーク。坂本佳一擁する東邦高校との決勝では、1点を失いながらも、チームは延長10回裏2死1・2塁から4番打者・安井浩二の3点本塁打でサヨナラ勝利を収めた。選手権本大会の決勝がサヨナラ本塁打で決着した事例は、大会史上初めてである。
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