全国区進出
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1992年秋、毎日放送から関西ローカルの深夜番組『テレビのツボ』の司会の話が持ちあがり、ぜんじろうは、大桃美代子・藤岡久美子とコンビを組んで、司会者として活動を開始する。「放送時間はド深夜」「超低予算の手作りセット」「破格に安いギャラ」という悪条件が揃っていたが、徐々に若者人気を博していき、結果、テレビのツボは、関西一円での人気番組となった。このテレビのツボの成功によって毎日放送は、月曜日から金曜日の夕方16時~17時の時間帯にて、ぜんじろうをメイン司会に起用し、同じく大桃・藤岡とコンビを組ませて、屋台の目ぇという情報番組を開始した。 ぜんじろうへの期待は大きく、吉本と毎日放送から「平成の明石家さんま」という触れ込みで大々的に売り出され、全盛時のレギュラー本数は17本を獲得した。1995年からは東京に進出し、『超天才・たけしの元気が出るテレビ!!』のレギュラーや、『ぜぜぜのぜんじろう』、『東京Jr.ジャンク』のメインMCなど、全国ネットのレギュラーを持つようになり、大阪吉本から東京吉本へと移籍した。 しかし、東京の業界人が求めるものと、ぜんじろうの資質との間には元々大きなギャップがあったことから、東京で抱えた番組は全て降板する事になった。「関西で成功したぜんじろうに、東京のテレビマンは、何をさせたらいいのかよくわからなかった」のである。「関西で司会者として大成功しているらしい」という前評判だけがあり、ぜんじろうのスタイルがわからなかった。「平成の明石家さんま」という触れ込みから、「さんまのものまね芸人」や「さんまのようなMCスタイルの芸人」なのだろうと誤解され、その手の仕事を割り振られたのも、うまくいかなかった一因となった。「上岡龍太郎の弟子」として、知性的な毒舌タレントの役割を期待された仕事もあったが、それもハマらなかった。 当時のぜんじろうには「あかん。仕事がうまくいかへん」という自覚が強くあったが、東京吉本に移籍してきて結果を出したい焦りと、自分についたマネージャーが新人だったという事もあり、自分に来た仕事を全て受けてしまった。関西のぜんじろうは「気さく、明るく、よく喋る、親近感のあるお兄ちゃんキャラ」だが、これが東京では「馴れ馴れしい、はしゃぎすぎ、うるさい人」という低評価になり、ぜんじろう自身、東京に対するアウェー感も拭えず、空回りを続けた。 最終的には、テレビ局に入るとすぐに楽屋入りしてひたすら1人で引きこもり、出番までは誰とも一切コミュニケーションをとらないように行動、出番を終えたらすぐに帰宅して自宅に引きこもるという状態に陥る。関西からナインティナイン・ロンドンブーツ1号2号が本格進出し、東京で爆笑問題やネプチューンらのボキャブラ芸人がブレイクすると、ぜんじろうは東京のテレビから姿を消した。
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