全国の平戸七宝の記録とは? わかりやすく解説

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全国の平戸七宝の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 06:45 UTC 版)

平戸七宝」の記事における「全国の平戸七宝の記録」の解説

明治期には、東京京都でも平戸七宝呼ばれる七宝器が製造され記録残っている。例えば、東京活躍した2代平塚茂兵衛ひらつか もへい)・敬之(1836年 - 1900年)は、当時としては希な透明釉用いていたことから「透明七宝工」と称され名工であり、その作は『七宝流し』だったとも、『平戸七宝』だったとも伝えられている。平塚の作は、先代からの製造依頼主である横浜大関一家大関定次郎)により第一回内国勧業博覧会出品され龍紋賞牌受賞している。その審査評語には「金線用いて細に草花描き玻璃質の各色琺瑯を施す」とあり、細金細工特徴見える。そして、第二回内国博の目録では「手釦紐 金銀花鳥模様七宝流し」、第三回内国博の目録では「銀平七宝香炉」の記載見られる一方で第一回内国博の目録には、上述大関とは別の出品者として佐塚留吉の名があり、こちらは「小皿 金銀七宝焼」と記されている。さらに、平塚本人出品として「緒締 金七宝象嵌」が記されており、作品納入先出品者)や時期などにより様々に形容されていたようである。なお、当時平塚技量を示すものとしては、明治11年に、正倉院宝物の「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡おうごんるりでんはいじゅうにりょうきょう)」の複製品制作をしており、これは東京国立博物館所蔵している。伝承によれば従来七宝は、衝撃弱く、すぐに文様剥離する欠点があったが、平塚は細い金銀の線を、文様上にろう付けするなどの独自の工夫重ね、その欠点改良したとされている。そして、平塚の作は米国シカゴ万国博覧会金賞受賞し日本平七宝の名が世界喧伝されたと伝えられている。平塚は、東京押上三千坪の大邸宅にて、4050名の職人養成したが、明治33年10月六十五歳で没したという。 一方明治33年1900年)の京都府調査によれば明治18年22年頃、京都でも平戸七宝なるものが産出され記録残っている。京都では、明治5年から銅器七宝産出されており、明治7年には業者として佐野三郎陶工錦光山宗兵衛の名前が記されていることから、上述京都産の平戸七宝は、これら銅器七宝陶胎七宝とは異な作風のものだった思われる。この時代、「平戸といえば、よく平戸島制作されていた南蛮渡来細金細工意味していた。たとえば、1870年明治3年)から 1876年明治9年)にかけて刊行され仮名垣魯文作の滑稽本西洋道中膝栗毛」の第3編の中で、『根附象牙に銀の鏡蓋で、緒〆(をじめ)が平戸(ひらと)で、金物(かなもの)が四分一の対(つい)びやう、裏座(うらざ)が銀で、(ごく)しぶのいやみなし。』とある。従って、当時平戸七宝といえば、よく細金細工七宝七宝流し)を施したものが想起されたと思われる。これは、上述東京2代平塚茂兵衛作風とも一致する

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